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徳川家康も驚いた!武田勝頼が怒涛の勢いで敢行した長篠城の奪取作戦

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田勝頼。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、武田勝頼の強さが際立っていた。今回は、武田勝頼が怒涛の勢いで敢行した長篠城の奪取作戦を取り上げることにしよう。

 天正3年(1575)3月、武田氏の軍勢は奥三河への侵攻を開始した。同年4月、徳川方の足助城(愛知県豊田市)を落すと、周囲の諸城も次々と怒涛の勢いで落城させた。

 武田軍が優勢のまま戦いを進めると、満を持したかのように武田勝頼が出陣し、菅沼定盈の籠る野田城(愛知県新城市)を攻撃した。その後、武田軍が吉田城(同豊橋市)に攻め込むと、家康は救援軍を派遣したが、あっけなく敗北した。

 同年5月になると、勝頼は長篠城(愛知県新城市)の奪還に着手した。長篠城を守っていたのが、奥三河の国衆の奥平信昌(初名:定昌)であった。もともと信昌は徳川家に仕えていたが、のちに武田氏の配下となった武将である。

 しかし、天正元年(1573)に武田信玄が没すると、再び徳川家に舞い戻ったという。家康は信昌に長篠城の守備を任せ、武田氏を牽制しようとしたのであるが、この地域をめぐる事情は複雑だった。

 永正5年(1508)、長篠城は菅沼氏が築城したと伝わっている。同城は豊川(旧寒狭川)と宇連川(旧大野川)の合流地点に築城され、交通の要衝地にあった。城は難攻不落の自然の要害となっており、断崖絶壁という自然の地形を活用し築城されていた。

 断崖絶壁と2つの川が妨げとなったため、東西と南側は非常に堅い守りとなっていた。長篠城は戦国末期の城郭の遺構がよく残っており、本丸跡を中心にした約3万5千平方メートルは史跡に指定されている。それゆえ、長篠城を落とすのは、至難の業だったといわれている。

 また、奥平氏は、徳川方の定能・信昌父子と武田方の道紋(定能の父)が争っており、田峯菅沼氏も一族が徳川方と武田方に分かれ、抗争を繰り広げていた。長篠菅沼氏も一族で争っており、長篠城の奪還を悲願とすべく、武田氏を頼っていた。

 武田軍による長篠城の奪還は、その後の長篠の戦いを引き起こす要因となった。そのような意味で、この攻防は大きな意味を持ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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