織田信長は無断で出掛けた女房衆を本当に惨殺したのだろうか
大河ドラマ「どうする家康」に登場する織田信長は、気性の激しい人物で知られている。信長は無断で出掛けた女房衆を惨殺したというが、これは事実なのか考えることにしよう。
天正9年(1581)にいわゆる「竹生島事件」が勃発した。以下、『信長公記』天正9年4月1日条の記事から事件の概要を示すことにしよう。
同年、信長は琵琶湖に浮かぶ竹生島に参詣した。竹生島は神が住む島と言われ、人々の信仰の対象となっていた。近江浅井氏らも、たびたび参詣したことで知られている。当時、信長の居城は安土城(滋賀県近江八幡市)であった。
信長は船と陸路を活用して出掛けたが、竹生島が遠いのは事実である。信長の女房衆は、きっと配下の羽柴秀吉の居城・長浜城(滋賀県長浜市)に宿泊するに違いないと考えた。
そこで、女房衆はせっかくの機会なので、参詣も兼ねて桑実寺(滋賀県近江八幡市)に出掛けたのである。桑実寺は天台宗寺院で、かつては将軍の足利義昭が滞在したこともある由緒ある寺院である。しかし、ここで女房衆にとって、予想外のことが起こった。
なんと信長は帰路で宿泊することなく、日帰りで竹生島から安土城に帰って来たのである。帰城した信長は、女房衆がいないことに気付き激怒した。怒ったのは、女房衆の職務怠慢に対してだった。
信長は桑実寺に対し、即座に女房衆を差し出すよう命じた。むろん、女房衆は信長の激しい気性を知っていたので、処罰されることを恐れ、桑実寺の長老に助けを求めたのである。長老は女房衆を哀れに思い、信長に慈悲を乞うた。
ところが、信長は長老からの申し出を聞いて、ますます怒り狂い、ついに女房衆だけでなく長老までも成敗したのである。この場合の成敗とは、殺害したと理解されている。信長のブラックな一面を示す逸話として、非常に有名なものである。
実は、成敗とは殺害のみを意味するのではない。単なる処罰という意味もある。職務怠慢とはいえ、女房衆を殺していたらきりがない。したがって、この場合は女房衆と長老を殺害したのではなく、厳罰を科したとみるのが妥当ではないだろうか。