三方ヶ原の戦いで壮絶な最期を遂げた夏目広次は、本当に徳川家康の身代わりになったのか
大河ドラマ「どうする家康」では、夏目広次が壮絶な戦死を遂げていた。広次は徳川家康の身代わりになったというが、それが事実なのか考えることにしよう。
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と夏目広次の関係に時間が割かれていた。家康はなかなか広次の名前を覚えられなかったようだ。広次は、かつて「吉信」と称されていたが、信頼できる史料には「広次」としか書かれていない。
夏目一族はもともと信濃国に本拠を置いていたが、のちに松平氏に仕えるようになった。譜代の家臣である。一説によると、かの文豪・夏目漱石は、広次の子孫であると言われている(諸説あり)。
とはいえ、広次は必ずしも家康に忠実ではなかった時期がある。永禄6年(1563)の三河一向一揆に際して、広次はあろうことか一揆衆に与し、家康と戦うことになった。広次は、一向宗を信仰していた可能性が高いと言える。
戦後、広次は徳川軍に捕縛されたが、家臣の助命嘆願によって生き永らえた。その後、広次は松平伊忠に従い、その功績が認められ、ようやく家康から帰参を許されたのだ。以降の広次は、再び忠臣として徳川家中で重きを置かれたのである。
元亀3年(1573)12月に三方ヶ原の戦いがはじまると、浜松城で留守を預かっていた広次は、櫓に上って形勢を確認した。やがて、徳川軍の形勢が不利と判断した広次は、ただちに戦場に急行し、家康に浜松城に帰城するよう進言した。
しかし、家康は「ここで撤退すると、敵の勢いが増してしまう。このまま敵に突撃して討ち死にする」と覚悟を示した。広次は家康に再び帰城を勧めたが、「敵兵に追い付かれたら同じことだ」と答えた。そこで、広次は自身が踏み止まって、家康に代わって討ち死にすると進言したのだ。
広次は家康が乗った馬を浜松の方向に向け、そのまま走らせて逃がすと、わずか25~6人の将兵で敵中に突撃した。広次は十文字の槍で敵を2人殺したが、ついに討ち死にしたという。家康は広次の忠死を哀れに思い、法蔵寺に石碑を建立した。
広次の戦死の話は、『寛政重修諸家譜』に書かれたもので、ほかに広次の忠臣ぶりを裏付けるたしかな史料はない。非常に感動的な逸話ではあるが、顕彰的な意味合いが強く、歴史的事実としては疑わしいように思える。