豊臣秀吉が京都の傾城屋(性産業)を統制した、最大のメリットとは
大河ドラマ「どうする家康」に登場する豊臣秀吉は、色好みだったことで知られている。のちに、秀吉は京都の傾城屋(性産業)を統制したが、最大のメリットとはどこにあったのか、検証することにしよう。
戦国時代が終焉に近づくと、性産業は都市計画の一環として整備されていった。天正16年(1588)には「天下の傾城、国家の費え也」と言われていた(『多聞院日記』)。傾城とは売買春だったので、国家滅亡のもとと問題になったのだろう。
当時は豊臣秀吉の時代だったが、傾城屋が一般市民の住居と混在していることも問題視された。治安の問題があったに違いない。遊女をめぐってのさまざまなトラブルは、現代と同様に数多く発生したと考えられる。
また、豊臣政権が巨万の富を蓄積した傾城屋を把握しておくことは、公事銭(税の一種)の確保という財政的な側面からも重視されたと推測される。こうして秀吉は、傾城屋の統制を進めることになった。
天正17年(1589)には京都の上・中・下三町からなる遊郭が二条柳町(京都市下京区)に新たに開かれ、洛中の傾城屋が1ヶ所に集められたという。この事実を記すのは、延宝6年(1678)に成立した藤本箕山の『色道大鏡』である
遊郭の移転を進言したのは、秀吉の配下にあった原三郎左衛門である。原三郎左衛門は、島原上の町西南角の桔梗屋八衛門の祖であり、のちに島原(京都市下京区)つまり遊郭を取り仕切るようになった人物だ。
文禄2年(1593)、京都所司代の前田玄以は、遊女の場代金(場所を使用する代金)を定めた。それは遊女のランクを上・中・下の3段階とし、上は30銭、中は20銭、下は10銭とするものである。
この決まりに背けば、傾城屋は町から追われることになった。そのような事情もあり、傾城屋を経営する道喜以下の22名はこの決まりに同意した。こうして傾城屋は、豊臣政権の監視下に置かれるようになったのだ。
場代金を設定した背景には、遊女と傾城屋との間でトラブルになっていたからだろう。一方で、政権は場代金を設定することにより、傾城屋から公事銭を徴収する算定根拠にしようとしたのではないか。
傾城屋を1ヶ所に集めると、治安を保つことが容易となり、場代金の設定も公事銭を徴収する点でメリットがあった。そのことを念頭において、秀吉は傾城屋の統制を強めていった。以上の政策は、秀吉の死後も受け継がれていく。