「どうする家康」佐久間信盛は、なぜ織田信長から追放されたのか。納得の理由
大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が恐ろしい人物として描かれている。今回はその点を確認するため、信長に粛清された佐久間信盛を取り上げておこう。
織田信長の譜代の重臣の1人として、尾張国愛知郡出身の佐久間信盛がいる。信盛は、信長からの信頼が厚かったといわれている。そんな信盛に信長が任せたのは、大坂本願寺の攻略だった。
天正3年(1575)以降、信長は総力を結集して大坂本願寺を攻撃した。しかし、大坂本願寺は毛利氏らと協力するなどし、なかなか信長に降参しなかった。この間、荒木村重らが謀反したので、信長は窮地に陥った。
天正8年(1580)3月、ようやく信長と大坂本願寺との戦いが終わったが、それは朝廷を介した和睦だった。大坂本願寺が退城したのは同年8月のことで、これで長年にわたる抗争は終結したのである。
戦後、信盛は信長から譴責状を突きつけられた。この譴責状は19ヵ条で構成され、信長が自筆で書いたという(『信長公記』)。内容は、信盛の失態を取り上げて非難したものである。
たとえば、信盛が戦いのうえでの工夫をせず、持久戦を続けたのは考えが足りないとしている。また、信盛は加増され、新しく与力を付けられていたが、非常にけち臭く、彼らに所領を与えなかった。それゆえ信盛は「欲が深く、気難しく、良き人を召抱えず」と信長から罵られた。
信長は信盛に「信長の代になって、信盛は30年ものあいだ奉公してきたが、〈比類なき働き〉といえるような実績は一度もなかった」とまで言った(『信長公記』)。結果、佐久間信盛・信栄父子は高野山(和歌山県高野町)へ追放され、翌天正9年(1581)7月に信盛は病没した。
信盛が追放された理由は、「信盛・信栄父子は5年ものあいだ大坂城に在城し、なんら功績を挙げなかったことは、世間の不審があることは間違いない。私も思い当たり、言葉に尽くせないほどである」という信長の言葉に集約されるだろう(『信長公記』)。
信長は明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家の活躍ぶりを信盛のそれと比較し、さらに信盛の過去の失態を厳しく糾弾した。また、信盛は大坂本願寺を相手に苦戦しているにもかかわらず、連日茶会を催していた。信長はあらゆる角度から分析して、信盛を「使えない男」とみなしたのだ。