「どうする家康」織田信長も激怒した。武田信玄の三方ヶ原の戦い前の周到な準備
大河ドラマ「どうする家康」では、三方ヶ原の戦いの場面がメインだった。それ以前、織田信長は武田信玄の合戦前の周到な準備を知らなかったので激怒したというが、その辺りを確認しよう。
元亀3年(1572)12月に三方ヶ原の戦いが勃発するが、その前から武田信玄は周到な準備を行っていた。前年の元亀2年(1571)、北条氏康が亡くなった。これまで両者の関係は芳しくなかったが、氏康の死は同盟復活のきっかけになった。
同年の年末頃までには、武田氏と北条氏との間で甲相同盟が結ばれたと指摘されている。同盟により、信玄は背後を突かれる心配がなくなったので、安心して西上することが可能になった。
元亀3年になると、信玄の軍事行動は本格化した。まず、飛騨に攻め込んで、上杉謙信と友好関係にあった江馬氏を越後に追いやった。美濃の遠藤氏も支配下に収め、奥三河の山家三方衆(奥平氏、菅沼氏)も味方になったので、武田氏は有利になった。
同年10月3日、いよいよ信玄は駿河を発ち、遠江に出陣した。別動隊の山県昌景と秋山虎繁のうち、虎繁の部隊は東美濃を侵攻ルートとしたといわれていたが、近年ではともに信濃伊那から青崩峠を経て、三河・遠江に攻め込んだと指摘されている。
この時の出兵について信玄は、「三ヶ年の鬱憤」を晴らす目的があったという。近年、「三ヶ年の鬱憤」は元亀元年(1570)に徳川家康が上杉氏と同盟を締結したことが原因であると提起されたが、それでは2年前の出来事になるので、計算が合わないと指摘された。
むしろ、従来説の永禄12年(1569)に家康が今川氏真と和睦し、氏真を沼津に向かわせた事実が該当するという。これは、信玄の考えに反した行動だったので、ずっと遺恨として残っていたのである。
しかし、信長は信玄の動きをまったく知らず、実際に挙兵してから驚愕した。信長は上杉謙信に書状を送り、信玄の行動を激しく罵り、以後はどんなことがあっても、信玄と通じることはないとまで言った。
信長にとって、信玄の西上は青天の霹靂だった。ともあれ、信長は同盟を結ぶ家康も攻められることになったので、ただちに対処しなくてはならなくなったのである。
主要参考文献
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)