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「どうする家康」三方ヶ原の戦いで、人生最大の大敗北を喫した徳川家康の数々の逸話

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、三方ヶ原の戦いで徳川家康が敗北を喫していた。戦いの経緯だけでなく、逸話も絡めて検証することにしよう。

 元亀3年(1572)10月、駿河を発った武田信玄は、西上の途についた。織田信長は信玄の挙兵をあらかじめ把握しておらず、それまでの友好関係を反故にされたので、怒りに打ち震えたという。

 信玄が率いた軍勢は、約2万5千だったといわれている。信長はただちに、徳川家康に平手汎秀・佐久間信盛率いる約3千の援軍を送り込んだ。しかし、家康の軍勢は約7千と言われているので、「焼け石に水」と言えなくもない。

 同年12月、信玄は家康の居城がある浜松に向かったが、途中で進路を変更し、三方ヶ原へと進軍した。ここから三河に攻め込もうとしたのだろう。信玄の侵攻ルートを知った家康は、すぐに打って出ようとした。

 とはいえ、所詮は寡兵に過ぎなかったので、家康の家臣は思い止まるよう進言した。家康は弱気になった家臣に対して、「大勢で我が家の裏戸を通ろうとしたら、咎めない者はいないだろう。我が国を通過しようとする者が大勢だからといって、なんで咎めないことがあろうか。とにかく合戦をするしかない。合戦は多勢・無勢が決め手ではなく、天道次第である」と述べたという(『三河物語』)。

 こうして家康は、果敢にも信玄の戦いを挑んだが、結果は人生最大の大敗北だった。おまけに、家康は夏目広次をはじめ、多くの重臣を失った。援軍に駆け付けた、信長配下の平手汎秀も討ち死にした。一方の武田氏はあまり被害がなかった。

 信玄は家康との合戦での大勝利を、ただちに朝倉義景に報告した。ただし、信玄は義景に対して、信長を滅亡に追い込むチャンスだったのに、なぜ兵を引いたのかと激怒した。信玄は、朝倉氏、大坂本願寺との共同作戦との認識があった。

 ところで、三方ヶ原の戦いには、ユニークな逸話がある。家康は這う這うの体で城に戻ると、城門を開けて、煌々と篝火を焚いたという。これを見た武田の将兵は、何か作戦があるに違いないと思い、兵を引いたという逸話があるが、これは創作である。

 また、武田軍は浜松城近くの犀ヶ崖で野営をしていたところ、家康の軍勢から深夜に奇襲攻撃を仕掛けられた。驚いた武田軍の将兵は、崖から落ちて死傷者が続出したという。この話も根拠がない創作に過ぎない。

主要参考文献

本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2006年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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