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「どうする家康」三方ヶ原の戦い後、徳川家康が戒めのために自画像を描かせたのは事実か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が武田信玄と三方ヶ原の戦いで敗北を喫した。家康は逃げ帰ると、戒めのために自画像を描かせたというが、それは事実なのだろうか。

 三方ヶ原の戦いの敗北後、家康は戒めとして自画像を書かせたという。家康が憔悴しきった表情で、しかも顔をしかめているので、「しかみ像」と称された。家康は敗北の悔しさを忘れず、慢心を戒めるため、亡くなるまで自画像を側に置いたと伝わる。

 このエピソードはよく知られているが、近年になって疑わしいことが指摘された。自画像は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」が正式名称であるが、以下、広く知られた「しかみ像」で表記を統一する。

 18世紀末頃、「しかみ像」は、紀州徳川家から家康の肖像画として尾張徳川家に伝来した。そうした経緯もあって、現在、愛知県名古屋市の徳川美術館が「しかみ像」を所蔵することになった。

 明治以降、「しかみ像」は「長篠戦役図」と名付けられ、長篠の戦いにおける家康像と認識されていた。明治43年(1910)4月、尾張徳川家が展覧会を開催し、「しかみ像」を展示した。同年に刊行された『国華』240号の記事には、「しかみ像」についての解説がある。

 その記事によると、「しかみ像」は長篠の戦いのもので、尾張藩祖の徳川義直が当時の苦しさを忘れないよう、絵師に描かせたという。つまり、「しかみ像」は三方ヶ原の戦いのものではなかったのだ。

 昭和11年(1936)1月、「しかみ像」が徳川美術館の展覧会で展示された。『新愛知』、『大阪毎日新聞』の記事によると、徳川義直が父・家康の苦難を忘れないため狩野探幽に描かせたという。以降、「しかみ像」には、三方ヶ原の戦いの敗戦の情報が加わった。

 昭和47年(1972)に刊行された『徳川美術館名品図録』によると「しかみ像」は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」となっていた。もう長篠の戦いの情報は、すっかりなくなっていたのだ。

 この時点で、「しかみ像」は家康が三方ヶ原の戦いで敗北を喫し、這う這うの体で浜松城に逃げ帰った際、慢心への自戒として、生涯にわたり座右に置いたと解説された。以降、「しかみ像」の説明は、この解説が広く知れ渡ったのである。

 しかし、近年の研究によって、ここまで述べた経緯が明らかにされ、「しかみ像」は三方ヶ原の戦いと無関係であることが明らかになった。しかも、「しかみ像」は江戸時代中期頃の作品であると言われている。

主要参考文献

香山里絵「『尾張徳川美術館』設計懸賞」(『金鯱叢書』第四三輯、二〇一六年)

原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」(『金鯱叢書』第四三輯、二〇一六年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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