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「どうする家康」豊臣秀吉も徳川家康も絶句した。織田信雄・信孝兄弟の険悪な関係

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽川・犬山橋方向。(写真:イメージマート)

 致道博物館(山形県鶴岡市)は、小牧・長久手の戦い直後に織田信雄が徳川家康に宛てた書状を公開している。本能寺の変後、信雄と弟の信孝は険悪な関係にあり、それが小牧・長久手の戦いの遠因になった。

 織田信雄と弟の信孝の関係が険悪だった理由は、信雄が尾張、信孝が美濃を領有することになっていたが、その国境をどう画定するかで揉めたからである。

 天正10年(1582)に比定される8月11日付の秀吉書状(丹羽長秀宛)によると、尾張・美濃の境目について、信孝から長秀と秀吉に問い合わせがあった(「専行寺文書」)。それは、美濃と尾張の国境を「大河(木曽川)切り」にしてほしいという要請だった。

 秀吉は「大河切り」に賛意を示し、信雄にそう申し入れるので、長秀も同様にしてほしいと申し述べた。では、なぜ、信雄・信孝の2人は、尾張・美濃の国境をめぐって揉めたのだろうか。

 現在、愛知県と岐阜県の国境は木曽川が境だが、当時の美濃と尾張の国境は、木曽川の北部を流れる境川だった。木曽川が美濃と尾張の国境になれば、信孝の領土は広くなるので「大河切り」を申し出たが、信雄は素直に応じなかった。

 その後、秀吉は信雄と信孝の国境紛争について、信孝の意向を尊重していた。秀吉書状(稲葉重執宛)によると、国境画定の件が解決したことを報告し、居城の長浜城に戻ったことから明らかだ(「小川文書」)。

 しかし、国境問題は、簡単に解決しなかった。同年9月3日の柴田勝家書状(丹羽長秀宛)によると、尾張・美濃の国境問題は、宿老衆に持ち込まれていた(「徳川記念財団所蔵文書」)。信雄と信孝は、話し合いで解決していなかったのだ。

 信孝は「大河切り」を主張し、美濃東三郡(可児・土岐・恵那)を信雄に割譲すると交換条件を持ち出した。一方、信雄は「国切り」(境川を美濃・尾張の国境とする)を主張した。双方が譲ることなく、話は平行線をたどったので、容易に結論が出なかった。

 国境付近では、諸給人、百姓の帰属問題があった。それについては、境目の国人と信雄、信孝の双方の奉行・宿老衆が調査すればよいと、勝家は助言した。また、新たに下々の者の帰属問題が生じたときは、その都度奉行を遣わして、解決すればよいと述べたのである。

 つまり、明確に国境を画定せず、問題が生じればその都度話し合うこととし、明確な判断を避けた。国境問題の結末は不明である。結局、国境問題は互いが納得する形で解決せず、不満だけが残ったのである。このことが、小牧・長久手の戦いの遠因にもなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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