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甲斐武田氏の戦場における略奪など、蛮行の数々を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄銅像・甲府駅前。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、武田信玄の存在がクローズアップされている。ところで、甲斐武田氏は戦場で数々の蛮行を行ったので、詳しく紹介することにしよう。

 『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料には、甲斐武田氏が戦場で犯した数多く蛮行を記録している。天文5年(1536)、武田氏の軍勢が相模国青根郷(相模原区緑区青根)に侵攻し、「足弱」を100人ばかり捕らえていったという。

 「足弱」とは、女性、老人、子供を意味する(足軽の意味もある)。武田氏の軍勢は戦争で敵に勝利したついでに、戦利品として「足弱」を甲斐に連行したのである。いつの時代も、常に女性、老人、子供は「弱者」でだったといえよう。

 天文15年(1546)には飢饉があったので、甲斐国内では餓死する者が続出した。これにより、領内が困窮したのはいうまでもない。そこで、武田氏の軍勢は他国へ攻め込むと、戦場で男女を捕縛して、甲斐国へ連行した。

 捕縛された人々は、親類によって2貫、3貫、5貫、10貫で買い戻されたという(現在の貨幣価値で、1貫=約10万円)。捕らわれた人々は、約20万円から100万円で買い戻されたのである。「足弱」は売買されただけでなく、農業などの貴重な労働力になった。

 戦場で人や物資を強奪することを「乱取り」という。将兵が戦場で略奪したものは、自分のものになった。「乱取り」の様子は、『甲陽軍鑑』にも詳しく書かれている。

 川中島の戦いで、甲斐国から信濃国へ攻め込んだ武田軍が越後国関山(新潟県妙高村)に放火したので、人々は這う這うの体で逃げ出した。そして、武田軍は上杉謙信の居城・春日山城(新潟県上越市)へ迫った。

 武田軍は越後に入ると、次々と人々(特に女や子供)を捕縛した。将兵は人々を捕らえ、馬や刀・脇差を強奪することで、豊かになったという。将兵にとって戦争のうまみは、「乱取り」といっても過言ではなかったのだ。

 「どうする家康」では、予算の関係もあってか、合戦のシーンは控えめである。もし、合戦だけでなく「乱取り」のシーンを描いてくれたら、個人的にはとてもうれしい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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