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「どうする家康」徳川家康が上杉謙信と同盟した当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上杉謙信。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が上杉謙信と同盟を締結していた。なぜ、両者は同盟を結んだのか、詳しく考えてみることにしよう。

 元亀元年(1570)6月、徳川家康は織田信長と協力して、姉川の戦いで辛うじて勝利を収めた。それより前、家康は本拠を岡崎から浜松に移した。浜松城の改修工事を行ったので、実際に家康が浜松に移ったのは、9月のことだった。武田氏への対策であろう。

 それ以前の永禄12年(1569)1月、武田氏配下の秋山虎繁が信濃から今川領の遠江に侵攻した。遠江は家康が支配する約束だったので、家康は武田氏に不信感を抱いた。やがて、家康は上杉謙信と接触するようになった。

 元亀元年(1570)8月以降、家康は謙信と同盟の交渉を進め、10月8日に起請文を交わして締結した。その内容は、家康が信玄との断交を固く誓ったこと、そして謙信と信長との関係改善を図り、信長と信玄との縁談話を阻止するものだった。

 つまり、家康は謙信と単に同盟を結んだだけでなく、信長と謙信を結び付けようとし、信長と信玄との関係を破綻させようとしていた。この起請文により、家康は決して信長に従順だったのではなく、自らの判断で行動していたことがわかる。

 言うまでもなく、謙信は信玄にとって宿敵だった。そこで、信玄は家康が謙信と同盟を締結したことに対して、信長に強く抗議を行った。しかし、信長は信玄の抗議を意に介することなく、これまで通り家康との同盟関係を続けたのである。

 とはいえ、武田氏は変わらず駿河支配を強力に推し進めた。元亀2年(1571)には北条氏康が亡くなり、子の氏政が跡を継いだ。信玄は氏政と同盟を締結し、駿河支配を確固たるものにしたのである。

 さらに信玄は、謙信に対抗するため、越前の朝倉氏との関係を深めていった。朝倉義景は大坂本願寺と同盟関係を結んでおり、信長と敵対していた。武田氏と朝倉氏の思惑は一致したのである。こうして、織田・徳川両氏と武田氏の対立関係は深まったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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