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「どうする家康」徳川家康だけでなかった。側室が多すぎた武将3人

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が側室を迎える場面が散見した。今回は、側室が多すぎた武将を紹介することにしよう。なお、側室の数については、諸説あるので申し添えておきたい。

■徳川家康(1543~1616)

 家康には、側室が21人もいたといわれている。正室は、今川氏の家臣・関口氏純の娘だったが、天正7年(1579)8月に子の信康ともども家康によって処分された。

 天正14年(1586)、小牧・長久手の戦い後に和睦を結ぶ際、家康は豊臣秀吉の妹・朝日(旭)姫を妻に迎えた。ところが、2人の同居の期間は短く、朝日(旭)姫はわずか4年後に病没した。

 家康の後継者の秀忠は、家康と側室・西郷局(西郷清員の養女)の間に誕生した子だった。次男の結城秀康以下、すべて家康と側室との間に生まれた子で、その数は10人に及んだ。

 慶長5年(1600)、家康は15歳の蓮華院(青木一矩の娘)を側室とした。当時、家康は59歳だった。家康は若い娘を好んだおかげで、11人の男子、5人の女子に恵まれたのである。

■豊臣秀吉(1537~98)

 豊臣秀吉には、13人もの側室がいたといわれている。正室は杉原定利の娘「おね」(「ねね」とも)であるが、2人の間に子供はできなかった。

 秀吉の側室で有名なのは、淀殿(浅井長政の娘)である。2人の間には、待望の嫡男・秀頼が生まれた。秀吉が歓喜したのは、言うまでもないだろう。

 淀殿の人物像が悪しざまに描かれることが多く、秀頼は淀殿と家臣の大野治長の密通によりできた子という噂があった。もはや真偽のたしかめようはない。

■豊臣秀次(1568~95)

 豊臣秀次には、33人もの側室がいたといわれている。正室は池田恒興の娘・若政所であるが、再婚した側室の一の台(菊亭晴季の娘)が若政所の没後に正室になったという説もある。

 秀吉は秀次に「女狂いについては秀吉の真似をしてはいけない」と諭した(「本願寺文書」)。さらに秀吉は「女性を囲うのは5人でも10人でも構わないので、外での女狂いは控えること」とまで言っている。それゆえ秀次には、多数の側室がいたのだろうか。

 文禄4年(1595)7月、秀吉は秀次に切腹を命じ、加えて秀次の妻子を撫で斬りにすると首塚に埋葬し、「畜生塚」、「秀次悪逆塚」と呼んだという。

 ともあれ、晩婚化、未婚化、少子化が問題となる昨今、誠にうらやましい話なのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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