「どうする家康」フロイスが豊臣秀吉の人間性を厳しく糾弾したワケ
大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉の奇矯な人物像が話題になっている。フロイスは豊臣秀吉の人間性を厳しく糾弾したが、その理由について考えることにしよう。
天正10年(1582)6月の本能寺の変後、豊臣秀吉は織田信長の後継者として、着実に地歩を固めた。山崎の戦いで明智光秀を、続けてライバルの柴田勝家を滅ぼし、翌年の小牧・長久手の戦いでは織田信雄と徳川家康を配下に収めた。
天正13年(1585)、ついに秀吉は関白に就任すると、その後の四国征伐、九州征伐、小田原征伐により、秀吉は天下人になった。しかし、イエズス会の宣教師フロイスは、その著『日本史』で抜け目のない秀吉に厳しい評価を下した。
秀吉の人間性に関しては、「彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品に欠けていた」あるいは「(秀吉)には、高貴さと武勲において己(秀吉)に優る二人(柴田勝家・織田信孝)の競争相手がおり」と、その出自や品格を問題視した。
フロイスは秀吉について「抜け目なく狡猾であったので、己が才能を誇示し貴人や民衆の希望を満たすために、2つのことを実現して彼らを掌握しようと決意した」と記した。その2つとは、次のとおりである。
①主君の信長の葬儀を盛大に挙行し、また②幼い三法師(信忠の子)を擁立して後見人になることで、秀吉は織田政権の主導権を握ろうとしたというのである。まさしく、秀吉は抜け目ない男だった。
こうして秀吉は、信長の後継者として勢力基盤を築いたが、フロイス『日本史』は秀吉の本性を暴くかのような発言をしている。
こうして(秀吉は)地歩を固め企図したことが成就したと見るやいなや、彼はがぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことはなんら構わぬのみか、為し得ること万事において(信長)を凌ぎ、彼より秀でた人物になろうと普段の努力をした。
フロイスがこのように秀吉を評価したのには、もちろん理由があった。周知のとおり、秀吉は天正15年(1587)に伴天連追放令を発布した。これは、フロイスらキリスト教関係者にとって大きな危機だった。
それゆえ、フロイスは秀吉を罵倒するような発言を繰り返し行ったのである。実際、秀吉の書状を読んでも、心に闇を抱えた異様な人物だったことがうかがえる。