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「どうする家康」姉川の戦いにおける、真柄直隆と本多忠勝の一騎打ち

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本多忠勝の家紋。丸に立ち葵。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」は、姉川の戦いのシーンが省略されてしまった。今回は、真柄氏や姉川の戦いにおける真柄直隆と本多忠勝の一騎打ちを取り上げることにしよう。

 近年になって、真柄氏に関する新史料「真柄氏家記覚書」(福井県立歴史博物館所蔵)が紹介された。17世紀頃に成立した同史料によると、越前真柄(福井県越前市)が真柄氏の出身地であり、現在は真柄直隆の碑文が建立されている。

 天文5年(1536)に直隆は家正の子として誕生した。長らく父の名は不明とされてきたが、「真柄氏家記覚書」によって判明したのである。直隆の弟が直澄である。

 真柄直隆・直澄兄弟は朝倉氏の家臣で、「太郎太刀」、「次郎太刀」という名刀で名を馳せた。直隆の身長は約210cm、体重は約250kgという大巨漢で、黒鹿毛の馬に乗り、武芸に優れていたという。

 将軍・足利義昭が一乗谷(福井市)に滞在した際、直隆は2本の大太刀を十数回も頭上で振り回し、その武芸を披露した。義昭が大いに驚いたことは、もちろん言うまでもないだろう。

 熱田神宮が所蔵する「太郎太刀」は、全体の長さが303cmで、刃長は7尺3寸(約221cm)もあった。重量は、約4.5kgである。熱田神宮には弟・直澄所用の「次郎太刀」も伝わっているが、刃長は5尺5寸(約166cm)と少し短い。とはいえ、ともに大太刀なのは変わりない。

 元亀元年(1570)6月、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が姉川(滋賀県長浜市)で戦ったとき(姉川の戦い)、直隆は弟・直澄、子の隆基とともに出陣した。

 その際、直隆は「太郎太刀」を引っ提げて、徳川方の本多忠勝と一騎打ちに臨んだという。忠勝は、名槍「蜻蛉切」で知られる猛将だった。しかし、戦いの半ば、徳川方の攻撃が激しくなったので、直隆は忠勝との戦いを中断し撤退した。

 その直後、直隆は徳川方の向坂三兄弟に討たれたが、「我頸を御家の誉れにせよ」と最期の言葉を残したという。弟・直澄、子の隆基も戦死した。直隆を斬った刀は、「真柄斬り」と称された。

 残念ながら、直隆と忠勝の一騎打ちの記述は乏しい。また、向坂三兄弟に討たれたのは、父の家正だったという説もある。真柄氏の一次史料は乏しく、少なからず混乱が見られるようである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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