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「どうする家康」織田信長は姉川の戦いで、遠藤直経に危うく討たれるところだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」は、姉川の戦いが描かれていた。織田信長は姉川の戦いで、遠藤直経に危うく討たれるところだったといわれているが、その点について詳しく考えてみよう。

 元亀元年(1570)6月28日の姉川の戦いにおいて、浅井長政の家臣の遠藤直経が織田信長を討とうとしたと伝わっている。遠藤直経とは、いったいどんな人物だったのだろうか。

 直経の詳しい来歴は不明である。永禄11年(1568)に信長が足利義昭と上洛したとき、長政と佐和山城(滋賀県彦根市)で面会した。その際、直経は信長を毒殺しようとしたり、刺し違えようとしたりしたが、いずれも失敗した。

 信長の毒殺をしようとしたとき、長政が信長と面会中で許可を得られず、久政(長政の父)から許しを得ようとしたが得られなかった。信長と刺し違えようとしたときは、羽柴秀吉によって阻止されたという。

 また、浅井長政がお市(信長の妹)と結婚した際、信長は成菩提院(滋賀県米原市)に宿泊した。直経は信長の手勢が少ないことを知り、長政に信長の暗殺を進言したが、これは却下されたという。

 姉川の戦いがはじまると、直経は信長を討ち取るべく、信長の居所の約18mまで近づいた。しかし、織田方の竹中重矩(半兵衛の弟)に不穏な動きを察知され、直経は討ち取られたのである。直経は、本懐を果たすことができなかったのだ。

 以前から重矩は、直経の首を取ると豪語していたといわれている。直経は首を手に提げて、織田方の陣中に紛れ込もうとしたが、重矩は見事に敵であると見破ったのである。もし、重矩がいなければ、信長は死んでいたかもしれない。

 以上の話は、『浅井三代記』、『四戦紀聞』、『信長公記』、『太閤記』といった二次史料に書かれた逸話であるが、少なくとも直経が討たれたのは事実である。

 なお、直経が討たれた場所には、信長の本陣跡の陣杭の柳から南に300m離れたところに「遠藤塚」が築かれた。別に「遠藤喜右衛門直経之墓」が建立され、毎年7月1日に法要が営まれている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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