「どうする家康」徳川家康が浜松城を築き、引馬城から改名した経緯とは
大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が徳川家康に対して、浜松城を築くように命じていた。その経緯について、詳しく考えることにしよう。
浜松城の前身は、近くに跡がある引馬城(静岡県浜松市)である。引馬城の城主を務めていたのは、今川氏の家臣の飯尾氏だった。とりわけ、16世紀に活躍した飯尾連龍は有名である。
永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、駿河、遠江の国衆は大いに動揺した。遠江国内では、堀越氏・天野氏・松井氏・井伊氏といった国衆が次々と今川氏から離反し、それは飯尾氏も同じだった。弱体化した今川氏に見切りをつけたのだ。
永禄6年(1563)以降、遠江国内は「遠州忩劇」という争乱に見舞われ、飯尾氏は今川氏と抗争を繰り広げた。争乱が静まったのは、翌年のことである。しかし、永禄8年(1565)、今川氏真は連龍を殺害したのである。
その後、引馬城を接収したのが徳川家康であるが、来るべき武田氏の侵攻に備える必要があった。当初、家康は天竜川を越えた見付(静岡県磐田市)に新しい城を築く予定だったが、これでは西に撤退する際に天竜川を越えるのが問題となった。
そこで、家康は引馬城を西の方へと広げ、完成したのが浜松城である。引馬城では「馬を引く」=「撤退する」という意味になるので、浜松荘にちなんで城の名前を変更したのである。当時の人は、縁起を担ぐことがよくあった。
こうして家康は、元亀元年(1570)に岡崎城(愛知県岡崎市)を子の信康に任せ、自らは浜松城へ移ったのである。家康の浜松城への在城は、29歳から45歳までという17年の長きにわたった。天正18年(1590)の小田原合戦後、家康は江戸に向かったのである。
ところで、家康が退去したあとの歴代浜松城主は大出世を遂げたので、浜松城は「出世城」という異名で知られた。幕末までの約260人の間に、幕府の要職に就いた者は数知れず、天保の改革で知られる水野忠邦は自ら浜松城主を望んだという。