「どうする家康」徳川家康は、なぜ武将としての人気がないのか。3つの理由
大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、戦国大名としての人気が低い。その理由を3点にまとめることにしよう。
①容姿が端麗ではなかった
戦国時代の男性の容姿については、良し悪しの明確な基準があるわけではない。ドン・ロドリゴは『日本見聞録』のなかで、家康が色が黒くなかったものの、太っていたと記している。その代わり、性格は大変明るく愉快で、尊敬すべき人物だったという。
豊臣秀吉が聚楽第で能楽の催しを行ったとき、家康は「船弁慶」を演じて見せた。しかし、家康は太りすぎていたので上手く踊れず、とても源義経には見えなかったので、ほかの大名は大爆笑したという。
『岩淵夜話』という後世に成った書によると、家康はあまりの肥満だったので、自分で下帯を締めることができなかったという。仕方がないので、侍女が下帯を結んでいた。相撲取りのような体型だったのだろう。
②セコイ逸話が多すぎる
家康は麦飯を食しており、あるとき気を利かせた家臣が米飯に麦を乗せたところ激怒したという。理由は百姓が苦労しているのに、自分だけ米を食べてはいけないと考えたからだった。おかずは八丁味噌で、麦飯を掻き込んだといわれている。
座敷で相撲を取るときは、畳が傷まないように裏返しにさせた。また、商人から蒔絵を施した便器を献上されたときは、趣味が悪いと激高し、壊させたという。また、屋敷は小さく質素だったといわれ、お金の計算にも細かかった。
③あまりにずる賢かった
大坂の陣では豊臣家を滅ぼすため、あらゆる権謀術策を用いた。方広寺の「国家安康」という鐘銘にイチャモンを付ける、和睦に際して大坂城の堀などを埋めさせたが直後に攻めた、など。あまりの腹黒さに「狸親父」と称された。
このように家康にまつわる嫌われる原因となった逸話は数多い。とはいえ、後世に成った逸話が大半で、どこまで正しいのかわからないものも非常に多い。