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「どうする家康」姉川の戦いの勝利のカギを握ったのは、徳川家康だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小谷城跡。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」は、姉川の戦いの場面だった。徳川家康は姉川の戦いで大活躍したので、その点を詳しく考えてみよう。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は金ヶ崎(福井県敦賀市)からの撤退に成功した。同年5月、朝倉義景は一族の朝倉景鏡を総大将とし、近江に向かわせ、六角氏とともに信長を討とうとしたが、失敗。信長は岐阜に帰還したのである。

 同年6月、信長は近江に出陣すると、虎御前山(滋賀県長浜市)に陣を置き、浅井氏の居城・小谷城下に火を放った。その後、信長が浅井方の横山城を攻囲すると、信長勢に徳川家康の軍勢が合流した。

 同じ頃、浅井長政は約5千の兵で出陣すると、浅井勢に朝倉景健の約8千の兵が加わった。合流した浅井・朝倉の約1万3千の兵は、姉川(滋賀県長浜市)に向かったのである。

 織田信長・徳川家康の連合軍は、約2万5千の兵力で、数的に浅井・朝倉連合軍より優位だった。三田村に朝倉軍が着陣したので、これに徳川軍が対応することになった。一方の長政は野村郷に陣を置いたので、織田軍がこれに対峙した。

 織田・徳川連合軍は、十三段の陣の構えで戦いに臨んだという。6月28日午前6時頃、姉川を挟んで戦いが開始されると、徳川方の酒井忠次の軍勢は朝倉氏と激突した。当初、織田軍は浅井軍に対して、劣勢だったといわれている。

 織田・徳川連合軍の十三段の構えは、十一段まで切り崩された。ところが、途中から徳川軍が浅井軍に横槍を入れると、形勢が一気に逆転した。最終的に勝利を収めたのは、織田・徳川連合軍だった。

 家康の軍功により、織田・徳川連合軍が勝利を掴んだのである。とはいえ、浅井・朝倉連合軍の戦死者は非常に多かったが、織田・徳川軍も多くの将兵を戦いで失った。

 信長が細川藤孝に送った書状には、「野も田畠も死骸だらけだった」と書かれている。信長は浅井・朝倉連合軍を深追いせずに、木下(豊臣)秀吉を横山城に置いて撤退した。慎重な姿勢を崩さなかったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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