「どうする家康」金ヶ崎退き口で「殿(しんがり)」を務めたのは誰か
大河ドラマ「どうする家康」は、金ヶ崎退き口が描かれていた。ドラマの中では、羽柴秀吉が殿を命じられたようだが、もう少し詳しく考えてみよう。
元亀元年(1570)4月、織田信長は朝倉氏の本拠の越前に攻め込んだが、妹婿の浅井長政が離反したので、撤退せざるを得なくなった(金ヶ崎退き口)。信長は無事に帰還したが、その際に殿を務めたのは誰だったのだろうか。
織田信長の伝記『信長公記』によると、信長は最初、長政の裏切りを信じられなかったという。しかし、方々から謀反の報告があったので、金ヶ崎城(福井県敦賀市)に羽柴秀吉を置いて、土地勘がある近江の朽木氏の支援を受けつつ、朽木越のルートで京都に帰還したという。
『当代記』によると、長政の離反を知った信長は、まず長政を討つべきと考え、誰を金ヶ崎城に残すか議論となった。そのとき秀吉は、「私を残してください」と申し出たので、信長は機嫌が良かったという。こちらも、秀吉が殿を務めたとする。
『寛永諸家系図伝』は、蜂須賀正勝、木村常陸介、生駒親正、前野長泰、加藤光泰の5人を殿とする。ただし、これは殿を主として担当したのではなく、殿の部隊に加わっていたと解するべきだろう。
ところが、元亀元年(1570)5月4日付の一色藤長書状(『武家雲箋』)によると、金ヶ崎城に残ったのは、秀吉、明智光秀、池田勝正の3人であるという。史料の性質から言えば、こちらの記載に従うのがベストであるといえよう。
『多聞院日記』によると、信長の撤退は決して楽でなく、約2千もの兵を失ったと伝える。当初、信長軍は圧倒的な勢いで越前に攻め込んだのだから、朝倉軍の反撃の凄まじさがうかがえる。
ところで、家康はどうしていたのだろうか。『松平記』によると、長政が裏切った際、家康はその事実を知らなかったという。退却するときには、秀吉と同道したというので、ともに殿を務めたということになろう。ただ、『松平記』は史料の性質上、鵜呑みにはできないだろう。