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「どうする家康」金ヶ崎退き口後、あまりに遅かった朝倉義景による織田信長の追撃

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、金ヶ崎退き口の場面が描かれていた。その後、朝倉義景は織田信長を追撃したが、あまりに遅かった事情について考えてみよう。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は越前に攻め込んだが、盟友の浅井長政に裏切られたので、撤退を余儀なくされた(金ヶ崎退き口)。信長は命からがら戦線を離脱したが、その後、朝倉義景はどう信長に対処したのだろうか。

 信長の越前侵攻は、朝倉氏にとって滅亡の危機だった。金ヶ崎、天筒山の2つの城が落城し、そのほかの朝倉方の城も次々と落とされた。信長軍が木芽峠を越えると、そのまま一乗谷に攻め込まれたのだから、長政の裏切りは朝倉氏にとって福音だった。

 この戦いで、朝倉方は約500もの将兵を失ったといわれているが、反撃を模索していた。同年5月11日、義景は家臣の朝倉景鏡を総大将にして、約2万の将兵を北近江に送り込んだ。しかし、この時点で信長が退却してから、すでに10日以上が経過していた。

 結論を言うと、朝倉氏は信長討伐のしっかりとした計画がなかったように思える。当時、信長に反旗を翻していたのは、長政のほかに六角氏がいた。朝倉氏が事前に両者と綿密な連携を図った形跡は、率直なところ見られないのである。

 出陣した景鏡は、美濃の垂井・赤坂(岐阜県大垣市)に火を放ったが、信長の軍勢と戦うことなく、ましてや大きな成果を挙げることもできなかった。結局、景鏡は美濃に止まっても仕方がないので、同年6月15日に越前に引き返したのである。

 信長のほうも、攻めてきた朝倉氏に対して、積極的に対処しなかった。その理由として考えられるのは、大坂本願寺と結託していた三好三人衆の挙兵があった。信長は、それ以前から三好三人衆の動きを警戒しており、朝倉氏に関わっている暇がなかったのだ。

 逆に言えば、信長と三好三人衆が争っていたならば、朝倉氏にとって絶好のチャンスだった。いずれにしても、朝倉氏は信長を攻め続けることができず、それだけの戦略や余裕がなかったのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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