Yahoo!ニュース

「どうする家康」徳川家康が娘の亀姫を奥平信昌に嫁がせた納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、のちに娘の亀姫を奥平信昌に嫁がせた。今回はその理由について、詳しく考えてみよう。

 徳川家康に限らず、当時の戦国大名はおおむね政略結婚だった。基本的に自由恋愛は認められず、有力な大名などと誼を通じるための結婚だった。そして、家康は自らも政略結婚に力を入れたのである。

 永禄3年(1560)、家康と築山殿との間に亀姫が誕生した。兄は、嫡男の松平信康である。亀姫もまた、政略結婚の手駒の一つになったのである。

 家康は武田氏との関係が良かった時期もあったが、やがて織田信長との関係を強めるなかで、武田氏と決裂することになった。そこで、問題となったのが、三河国内で武田氏と友好関係にあった奥平信昌である。家康は、奥平氏を懐柔する必要に迫られた。

 信長からの要望もあり、家康は信昌との関係を強化することになった。その際、もっとも有効な手段は、亀姫を信昌に嫁がせることだった。まさしく、政略結婚のセオリーだったといえよう。

 実は、条件はそれだけではなかった。信昌には領地の加増のほか、父・定能の娘を本多重純(家康配下の本多広孝の次男)に嫁がせるというものも加えられた。広孝は、徳川家の有力家臣の一人だった。

 元亀4年(1573)に武田信玄が亡くなると、定能は家康に信玄が死んだことを報告し、子の信昌ともども家康の配下に加わる意向を示したのである。奥平氏にとって、亀姫との結婚などは、渡りに船のような条件だったのかもしれない。

 ところが、信昌には「おふう」なる妻がおり、武田氏に人質として送っていた。「おふう」は、同じ奥平一族の貞友の娘だった。信昌は「おふう」と離縁したうえで、亀姫と結婚したのである。まさしく、非情の決断だったといえよう。

 とはいえ、武田氏は奥平氏の裏切りを許さなかった。同年9月、「おふう」は2人の子供とともに山県昌景によって、見せしめとして磔にされたという。信昌はきっと悲しんだに違いないが、家を守るためには避けることができなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事