「どうする家康」家康時代の江戸城の謎を解き明かす「江戸始図」とは
大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は江戸城を築いたが、その秘密を解き明かすカギとなる「江戸始図」について、詳しく考えてみよう。
徳川家康によって江戸城は築城されたが、創建期の一次史料は乏しく、二次史料に拠る必要がある。実は、江戸城は2代将軍の秀忠、三代将軍の家光が建て替えをしており、初期の頃の様相が失われた。また明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失したことも災いした。
江戸城を描いた古い絵図としては、「慶長江戸絵図」が知られている。東京都立中央図書館が所蔵しており、大きさは縦80.6cm、横81.7cmとやや大きめで、記載された大名の名前から慶長12~14年頃の状況を示す絵図と考えられている。
近年、島根県松江市で発見された「江戸始図」も、「慶長江戸絵図」と同年代のものと考えられており、家康時代の江戸城をうかがい知る貴重な絵図と評価されている。ただし、大きさは縦27.6cm、横40.0cmとやや小さめの絵図である。
この絵図によって、当時の江戸城の姿が判明する。本丸の南側に築かれた「外枡形」もその一つである。これは、侵入者を前後左右から銃や弓矢で攻撃するため、あえて石垣で通路を蛇行させた仕掛けである。同じものは熊本城にもあり、築城の名手と称えられた加藤清正が築いたといわれている。
また、天守も「小天守」と「大天守」が塀や櫓で連結されており、極めて特徴的である(「連立式天守」)。これは、池田輝政が築城した姫路城に同じものがある。輝政の妻・督姫は家康の次女だったので、何らかの関係があるのかもしれない。
このように草創期の江戸城は、熊本城や姫路城などの優れた技術を模範として改修が重ねられた。その背景には、当時はまだ豊臣家と友好関係にあったものの、近い将来の決裂を予想していたということが指摘されている。事実、そうなってしまった。
「江戸始図」が発見されたことにより、江戸城は戦国最強の城とまで指摘された。一方、創建当時の江戸城にはまだまだ謎が多いので、さらに研究が進むことを期待したい。