Yahoo!ニュース

「どうする家康」徳川家康が子の秀忠にすぐ征夷大将軍の座を譲った納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
江戸城の桜田二重櫓と桔梗濠。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、子の秀忠にすぐ征夷大将軍の座を譲った。今回はその理由について、詳しく考えてみよう。

 慶長8年(1603)2月、徳川家康は征夷大将軍に就任したが、その2年後には子の秀忠にその座を譲り渡した。そのタイミングで、秀忠が家康の後継者として征夷大将軍に就任したことは、決して自明のことではなかった。そこには、家康による将来を見据えた計算があった。

 慶長9年(1604)8月、家康は伏見城において、慶長10年(1605)9月までの約1年を期限とし、諸大名に御前帳・国絵図を提出するよう要請した。これには大きな意味があった。

 御前帳は国家的な土地の帳簿のことで、軍役を賦課する基準になる重要な文書だった。すでに豊臣政権下でも諸大名に御前帳・国絵図の提出が求められ、大坂城に保管されていたという。つまり、もともとは豊臣政権の管轄事項だった。

 御前帳・国絵図の提出の対象となる地域は、越中・飛騨から伊勢・紀伊の間を境として、それより以西だった点は注目される。家康は将来の天下普請(諸大名を築城などの工事に従事させること)における負担の基準とすべく、西国諸大名の石高を把握することを目的としたのだ。

 戦争があった場合、御前帳・国絵図が軍役基準となるので、この頃から豊臣政権の打倒を念頭に置いていた可能性もある。御前帳・国絵図の提出を要請したことは、家康が豊臣政権の保持する権限を吸収しようとしたと考えてよい。それは江戸幕府の礎になった。

 つまり、家康は全国支配を視野に入れて、御前帳・国絵図の提出を求めたのだ。そして、江戸幕府の盤石な体制を築いたうえで、子の秀忠に征夷大将軍の職を譲ろうとしたのである。これは、江戸幕府の永続を宣言したようなものだった。

 慶長10年(1605)4月、家康の子・秀忠が征夷大将軍を引き継ぎ、天下に征夷大将軍職が徳川家に世襲されることが知らしめられた。これにより、徳川家と豊臣家の立場は完全に逆転した。

 結果、豊臣秀頼は一大名としての地位に止まることになり、徳川家の武家の棟梁としての地位、江戸幕府の確固たる権力が確立した。徳川家の将軍職世襲により、秀頼が政権を担う可能性は、ほぼゼロに等しくなったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事