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「どうする家康」徳川家康は豊臣秀吉に命じられ、嫌々ながら江戸に行ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明治初年の江戸城。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、豊臣秀吉に命じられ、嫌々ながら江戸に行ったといわれている。今回はその点について、詳しく考えてみよう。

 江戸城の淵源をたどると、康正3年(1457)に太田道灌が築いたのがはじまりであるという。天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉は家康に江戸へ移ることを命じた。

 秀吉の命令は、家康にとって青天の霹靂だったに違いない。というのも、今でこそ東京は日本の中心地として繁栄しているが、当時は決してそうではなかった。草深い寒村が広がっているに過ぎなかったという。

 一説によると、家康の存在を恐れた秀吉は、家康を関東の辺境地に追いやって、その力を削ごうとしたという。しかし、それは俗説に過ぎない。秀吉の命なので、家康に選択の余地はなかったものの、嫌々ということはなかっただろう。秀吉は家康を関東に配置することで、関東や東北の諸大名の備えにしたと考えられる。

 江戸は関東各地の街道が集結しており、陸上交通の至便性が高かった。また、品川湊を通じた海上交通が発達しており、隅田川などの河川交通も重要な役割を果たしていた。つまり、江戸は交通の要衝にあったのだ。

 江戸は未開拓とはいえ、大いに可能性を秘めた土地だった。家康の心中は推し量るしかないが、気持ちは前向きであり、江戸城および城下町などの都市計画に積極的に取り組もうとしたことだろう。

 こうして江戸城は築城されたのであるが、創建期の一次史料は乏しく、二次史料に拠らなくてはならない。築城当初は小規模であったが、二の丸などを増築し、徐々に規模を拡大していた。

 当時の江戸城は江戸湾に近接していたので、湾内の埋め立てなども行い、城下町を形成した。やがて江戸城下町は見る見るうちに発展し、のちには世界的な規模の大都市へと変貌した。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、家康は江戸城の拡張に着手する。なかでも大規模な改修工事となったのが、慶長11年(1606)の天下普請である。家康は全国各地の大名に命令し、改修工事を推し進めた。

 以後もたびたび工事を実施し、江戸城は天下人の城としてふさわしい姿に変貌する。江戸幕府は単に組織が充実しただけではなく、江戸城と城下町の発展により、盤石な体制を築いたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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