「どうする家康」徳川家康は、なぜ実子の忠輝を蛇蝎のごとく嫌ったのか
大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、実子の忠輝を蛇蝎のごとく嫌ったといわれている。今回は、その点について、詳しく考えてみよう。
松平忠輝は、天正20年(1592)に徳川家康の6男として誕生した。慶長15年(1610)、忠輝は越後高田(新潟県上越市)に30万石を加増され、それまでの信濃川中島(長野市)の14万石を加え、44万石を領することになった(石高は諸説あり)。
家康が忠輝を高田に置いたのは、もちろん理由があった。当時、前田家が金沢(石川県金沢市)を中心に120万石を領していたので、越前北庄(福井市)の結城秀康に加え、忠輝を高田に配置することで、包囲網を築こうとしたのである。
とはいえ、家康は忠輝を嫌っていたという。慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、家康は忠輝に江戸の留守居役を命じた。翌年の大坂夏の陣に忠輝は出陣したが、大した軍功を挙げることができなかった。
元和元年(1615)8月、家康は忠輝に対して、以後の対面を禁じた。その理由は、忠輝が秀忠の家臣の長坂信時らを無礼打ちしたからだろう。翌年4月、家康は臨終の際、秀忠ら我が子を枕元に呼び寄せたが、忠輝だけは呼ばなかった。
『徳川実紀』によると、それでも忠輝は駿府に急行し、家康との面会を望んだが、家康はことのほか立腹し、城内にすら入れなったという。忠輝は仕方なく、城近くの禅寺に待機して詫びを入れたが、そのうち家康は亡くなったのである。
忠輝が家康に嫌われた理由は、①容貌があまりに醜かったこと(『藩翰譜』)、②容貌が嫡男の信康に似ていたこと(『野史』)などの説がある。いずれも後世の書物に書かれたもので、疑わしい点がある。同年7月、秀忠は忠輝を改易とし、伊勢国朝熊に流した。
忠輝が改易になった理由は、前年の秀忠の家臣の長坂信時らを無礼打ちした件が絡んでいた。家康は、忠輝の流罪を遺言していたという。一説によると、忠輝が大坂夏の陣で軍令違反(軍列の追い越し)を冒したなどといわれているが、違うであろう。
家康は忠輝を嫌っていたというよりも、秀忠の家臣を討ったことに立腹していた。しかも、その後の措置がうまく進まなかったので怒りが収まらず、ついには遺言をしてまで、忠輝の流罪を命じたということになろう。