「どうする家康」徳川家康は養女を迎えてまで、政略結婚を進めていた
大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は養女を迎えてまで、政略結婚を進めていた。今回はその例を取り上げて、詳しく考えてみよう。
戦国時代において、政略結婚はごくあたりまえのことだった。しかし、いかに徳川家康が子だくさんとはいえ、実子、特に女子の数には限りがあった。それゆえ、家臣から養子を迎え、政略結婚を進めたのである。
天正14年(1586)、家康は本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、真田昌幸の長男・信之(信幸)に輿入れさせた。明らかな政略結婚である。小松姫は当時18才で、夫の信之は7才年上の25才だった。
慶長5年(1600)、家康は上洛の命に応じない上杉景勝を討伐するため、会津に向けて出兵した。昌幸も家康に従い、犬伏(栃木県佐野市)に着陣し、信之も宇都宮(栃木県宇都宮市)に来ていた。
そこに届いたのが、挙兵を告げる西軍・石田三成の密書だった。三成は昌幸に対して、味方になるよう要請してきたのである。昌幸は信之を呼び寄せ、信繁(幸村)を加えると、東西両軍のどちらに味方すべきか協議した。
熟考した昌幸は、二手に分かれて戦うことを提案し、昌幸と信繁は西軍の豊臣方に、信之は東軍の徳川方に属して戦うことになったのである。信之が東軍に与したのは、妻が家康の養女だったからである。結果、東軍は見事に勝利した。
黒田長政は、家康の養女・栄姫を妻とした。栄姫は、久松俊勝と於大(家康の母)の娘との間にできた子で、家康の姪に当たる。当時、長政は蜂須賀至正勝の娘・糸姫を妻としていたが、離縁してまでも家康の養女を妻としたのである。
家康の目論見は、ずばり当たった。関ヶ原合戦が近づくと、政略結婚をした甲斐があって、長政は家康与党として大活躍した。西軍に与していた毛利輝元、小早川秀秋らを東軍に引き入れたのは、長政の活躍によるものである。東軍は、見事に勝利した。
家康が天下人になったのは、巧みな政略結婚によるものが大きかった。関ヶ原合戦が勃発すると、名立たる大名が東軍に与した。その中でも特に重要な大名は、家康と政略結婚でつながっていたのである。