「どうする家康」関ヶ原合戦後、徳川家康がすぐに征夷大将軍にならなかった理由
大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、関ヶ原合戦後すぐに征夷大将軍にならなかった。今回はその理由について、詳しく考えてみよう。
慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は、ただちに征夷大将軍にはならず、さらに3年もの歳月を要した。というのも、豊臣秀頼は西軍に属したわけでもなく、ましてや家康に敗北したわけでもなかったからだ。
戦後、家康の官職は豊臣秀頼よりも上だったが、急に両者の立場が逆転した訳ではない。いまだ豊臣公儀は存続しており、それは諸大名の認識も同じだった。たとえば、諸大名は歳首の祝詞を述べる際、まず大坂城の秀頼のもとを訪れ、次に伏見城の家康を訪問した。
それは家康も同じことで、慶長8年(1603)2月8日まで秀頼を先に訪問していたので、家康以下の諸大名は秀頼に臣下の礼を取っていたのは明らかである。この事実は、秀頼が摂河泉約65万石の大名になったとはいえ、豊臣公儀が健在だったことを示してる。
また、当時は秀頼が関白になるという噂が流れていた。関ヶ原合戦後、九条兼孝が関白を務めていたが、世の人々は近々に秀頼が関白に就任すると思っており、この事実は当時の記録にも見える。実現すると、秀頼の立場は確固たるものになる。
ところが、秀頼が関白に就任することなく、それは単なる噂に過ぎなかった。秀頼が関白に就任することで、家康に対抗しうる立場になる可能性を重視する指摘もあるが、過大評価だろう。
その後の家康は豊臣政権が保持していた権限(京都市中・畿内の掌握、鉱山の直轄領化など)を積極的に吸収し、やがて家康は秀頼を凌駕する存在になった。つまり、家康はすぐに征夷大将軍に就任せず、時機を待っていたといえよう。
こうして同年2月12日、家康は征夷大将軍に任じられると、従一位・右大臣に叙位任官し、さらに源氏長者(源氏一族全体の氏長者)などに任じられた。晴れて、家康の念願がかなったのである。
一方、秀頼も家康が征夷大将軍になった10日後、正二位・内大臣に叙位任官されたが、この時点で2人の立場は大きく変わったといえよう。つまり、家康は急に体制変革を試みたのではなく、情勢をじっくり見ながら、満を持して征夷大将軍に就任したのである。