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徳川家康の子・信康と徳姫は、小さい頃から仲が悪かったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岡崎城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の子・信康と徳姫が登場した。信康と徳姫はのちに結ばれたが、徐々に仲が悪くなった。今回は、その点について考えることにしよう。

 永禄2年(1559)10月12日、徳姫は織田信長の長女として誕生した。母は、側室の生駒氏娘であったといわれている。『源流綜貫』には、そのとおり書かれている。

 ところが、『織田家雑録』によると、徳姫は織田信忠の姉だったという。信忠の母は生駒氏娘ではなく、また信忠の誕生年は弘治3年(1557)と推定されているので、いささかの矛盾が生じる。

 永禄3年(1560)に織田信長が桶狭間合戦で今川氏を破ると、東海地方の政治情勢が大きく変わった。かつて今川方にあった徳川家康は自立し、今川氏から離反した。信長は家康を味方に引き入れることにも成功し、同盟を結ぶことになったのである。

 同盟の証として、家康の長男・信康と徳姫が結婚することになった。当時、同盟は起請文を交わしたりする一方で、人質の交換や婚姻関係を結ぶことで成立した。

 同じ頃、信長は美濃の斎藤氏とも抗争を繰り広げており、同時に家康を敵に回すのは得策ではなかった。それは、今川方から離反した家康も同じである。両者は和睦を結ぶことで、信長は斎藤氏と、家康は今川氏と心置きなく戦うことができたのである

 永禄6年(1563)、信康と徳姫の婚約が成立した。婚約に止まったのには理由があった。当時、徳姫は数え年で5歳にすぎず、信康も同年齢だったので、正式な結婚までに至らなかったのである。

 その4年後になって、ようやく徳姫は岡崎城(愛知県岡崎市)に輿入れしたのである。それでも2人は9歳だったので、幼かったことには変わりがない。ドラマの中で、2人は喧嘩をしていたが、この頃から仲が悪かったわけではないだろう。

 実際に2人の関係が悪くなったのは、天正5年(1577)のことだったといわれている。徳姫は女子を産んだが、後継者たる男子に恵まれなかった。嫡男が誕生しないことは、武士の家では大問題となった。

 心配した築山殿(信康の母で家康の妻)は、信康に側室を迎えようとしたが、これが仇になったといわれている。さらに、徳姫は信康との仲も悪くなったというが、その点は改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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