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武田信玄はどうやって駿河中西部の支配に成功したのか。そのメリットとは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
駿河湾。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が今川氏真が籠る掛川城を落とした。その後、信玄は駿河の中西部の支配に成功したので、その経緯を取り上げることにしよう。

 永禄12年(1569)10月、武田信玄は北条氏の領国の武蔵、相模に攻め込み、決定的な勝利を得られなかった。しかし、その後の駿河侵攻の布石を築くことになった。同年末、武田氏は再び駿河侵攻を実行に移したのである。

 武田勢の駿河侵攻に際して、横山城(静岡市清水区)の穴山信君、久能城(同駿河区)の板垣信康は一刻も早い応援部隊の到着を待ち望んでいた。攻撃態勢は整っていたようだ。

 一方の北条方は、家臣と今川氏旧臣で構成された駿河衆が武田勢の来襲に備えていた。蒲原城(静岡市清水区)、興国寺城(静岡県沼津市)、花沢城(同焼津市)、徳一色城(同藤枝市)がその防御拠点である。そして、岡部正綱は修繕を終えた今川館に入っていた。

 武田勢が最初に血祭りに上げたのは、蒲原城だった。武田勢が蒲原城を攻略すると、城番として山県昌景を置いた。その影響により、薩埵峠(静岡市清水区)に陣を置いていた北条勢は、まったくなす術もなく兵を引いたのである。

 その後、武田勢は今川館に向かったが、すぐに攻撃しなかった。臨済寺(静岡市葵区)の鉄山和尚を仲介者として、岡部氏に投降を促したのである。その結果、岡部氏は信玄に降参を申し入れた。これは、決定的な出来事だった。

 翌年1月以降、信玄は花沢城の攻撃に着手した。戦いは1月4日に開始されたが、落城したのは27日のことだった。2月になると、徳一色城を落とすことにも成功した。武田勢の勢いは止まることなく、快進撃を続けたのである。

 2月15日、武田勢は清水港に移動し、水軍の拠点を整備した。信玄は22日に甲斐に帰還したので、駿河出陣から約80日が経過していた。こうして信玄は、駿河中西部の制圧に成功したのである。駿河は海上に通じるので、信玄にとって大きなメリットとなった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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