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再び駿河に怒涛の勢いで侵攻した武田信玄の深い事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が今川氏真が籠る掛川城を落とした。その後、信玄は再び駿河に侵攻したので、その辺りの事情を取り上げることにしよう。

 永禄12年(1569)3月、武田信玄は駿河での進駐を諦め、本国の甲斐に撤退した。当初、信玄の駿河侵攻はうまくいっていたのだが、北条氏が軍事介入をしたので、撤退を余儀なくされた。氏真の妻・早川殿は、北条氏康の娘だった。

 しかし、信玄は駿河を諦めていなかった。甲斐に撤退した信玄は、ただちに北条氏の攻略に乗り出したのである。同年5月、甲斐を発った武田勢は、北条領内の武蔵八王子(東京都八王子市)、相模津久井(神奈川県相模原区)に攻め込んだ。

 その一方で、武田勢は深沢城(静岡県御殿場市)、大宮城(同富士市)を攻略し、甲斐から駿河にかけての交通路を確保することに成功した。こうして武田勢は、再び駿河侵攻の足掛かりを作ったのであるが、いったん武田勢は甲斐に引き返した。

 同年8月、再び武田勢が出陣すると、上野を経て北条領国の武蔵へと軍を進めた。その勢いで、北条方の鉢形城(埼玉県寄居町)、滝山城(東京都八王子市)を攻撃した。城は落ちなかったが、そのまま西進し、10月に北条氏の居城の小田原城(神奈川県小田原市)を攻囲したのである。

 北条氏は関八州を支配する際、領国内に支城を築き、重臣たちに守備を任せていた。支城ネットワークである。鉢形城、滝山城もその一つで、今も広大な遺構が残っているが、いかに武田勢とはいえ落とすのは容易ではなかった。

 小田原城は攻囲されたものの、北条氏は万全の守備体制を敷いていた。武田勢はセオリーどおり城下に火を放つなどしたが、大した成果を挙げることなく、津久井方面へと撤退した。

 武田勢が撤退する際、三増峠(神奈川県愛川町)で待ち伏せしていたのは、北条氏照の率いる軍勢だった。ここで両者は合戦となったが、武田勢の勝利に終わったという。

 こうして武田勢は北条氏の領国の武蔵、相模に攻め込み、決定的な勝利を得られなかったものの、駿河侵攻の布石を築くことになった。これが狙いだったのだろう。同年末、武田氏は再び駿河侵攻を企てたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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