Yahoo!ニュース

戦国大名としての今川氏の滅亡。家康はいかにして和睦したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川義元が逃れた三島。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が今川氏真が籠る掛川城を攻撃していた。その後、家康は氏真と和睦したが、その辺りの事情について考えることにしよう。

 永禄12年(1569)になって、徳川家康は今川氏真が籠る掛川城(静岡県掛川市)を攻撃したが、容易に落とすことはできなかった。家康は戦いが長くなるのは良くないと思い、やがて今川氏との和睦を考えるようになった。

 同年3月、家康は和睦を申し入れるべく、今川家臣の小倉勝久に使者を送った。その際、次のように理由を述べて、和睦を締結させようとした。

①これまで互いに深い関係にあったこと。

②家康が遠江を取らなければ、信玄のものになってしまうこと。

③和睦を結べば、家康が北条氏とともに信玄を追い払うこと。

④氏真を駿府に戻すこと。

 この話を聞いた氏真は、徐々に和睦の締結に傾いた。同時に家康は、今川家臣の諸将の説得に動いた。その内容とは、おおむね本知行の安堵を条件として、互いに起請文を交わすことだった。家康は、実にしたたかに交渉を進めたのだ。

 その後、家康が氏真の後ろ盾だった北条氏と和睦を結ぶと、氏真との和睦交渉も円滑に進んでいった。こうして同年5月6日、ついに氏真は掛川城を開城したのである。それは、氏真の敗北と大名としての滅亡を意味するものだった。

 開城後、氏真は北条氏康(妻・早川殿の父)から遣わされた将兵とともに、掛川城をあとにすることになった。その際、家康は警固の兵をつけたという。氏政(氏康の子)は氏真の退去を見届けると、三島(静岡県三島市)へと兵を引いた。

 掛川城をあとにした氏真と早川殿は、大平城(静岡県沼津市)に入ることになった。そして、氏真は国王丸(氏直:氏政の子)を養子に迎え、今川家の名跡を継がせることになったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事