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「甲斐の虎」武田信玄が無念の思いを抱きつつ、駿府から撤退した事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が今川氏真が籠る掛川城を攻撃していた。同じ頃、武田信玄は駿府を撤退したが、その辺りの事情について考えることにしよう。

 武田信玄は一気呵成に駿府を占拠し、今川氏真を放逐したが、そのままうまくいったわけではない。北条氏が軍勢を繰り出して、駿府へ迫っていた。氏真の妻・早川殿の父は、北条氏康だった。

 永禄12年(1569)1月、駿府に向けて出陣していた北条氏政は、三島(静岡県三島市)から薩埵峠(静岡市清水区)に本陣を移動させた。興津(同)では、北条氏邦が武田方の小荷駄隊(物資を運搬する部隊)を襲撃し、大いに戦果を挙げていた。

 ここで、武田方にとって予想外のことが起こった。同年2月、安部奥(静岡市葵区)で一揆が勃発したのである。この一揆は、地下人(普通の人々)が「反武田」を掲げて挙兵したもので、討ち取ってもなお抵抗することを止めなかった。

 窮地に陥った信玄は、織田信長に泣きついた。信長の仲介によって、将軍の足利義昭から上杉謙信に対して、和睦を命じてもらうよう働きかけたのである。

 信玄が恐れていたのは、今川に苦戦している最中に、上杉が武田領国に攻め込むことだった。そこで、信玄は謙信と和睦を締結することで、今川との戦いに専念しようと考えたのである。

 その後、義昭は上杉と武田に対して、和睦するよう命じた(甲越和与)。2人の和睦は、同年の7月頃に成った。信長の仲介がなければ、和睦はならなかったかもしれない。結局、信玄は交渉の最中に駿府から撤退し、甲府へ引き返した。

 信玄は信長なくして和睦締結がなかったことを自覚しており、和睦に際して「信長を頼りにするよりほかはなかった」と告白していた。しかし、一方で上杉と北条と和睦交渉も開始されていた(越相和与)。

 永禄13年(1570)4月、謙信は景虎(北条氏康の子)を養子に迎え入れると、ほぼ同時に上杉と武田の和睦は消滅したという。しかし、信玄は横山城(静岡市清水区)と久能城(同駿河区)に部将を置き、しっかりと守備を固めていたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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