Yahoo!ニュース

石川数正が家康のもとから出奔した納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、松重豊さんが石川数正を演じている。ドラマでは先の話になるが、石川数正は家康のもとから出奔する。その理由について考えることにしよう。

 石川数正は、徳川家康の側近として知られている。幼少時の家康が今川氏の人質になったときも身辺で仕え、家康の独立後も股肱の臣として支えた。その後、数正は叔父の家成が遠江掛川(静岡県掛川市)に配置転換されると、酒井忠次とともに西三河の守備を任された。

 ところが、天正13年(1585)、数正は岡崎城を出奔し、豊臣秀吉の配下となった。家康を裏切ったのだ。天正18年(1590)の小田原征伐後、数正は信濃国松本城(長野県松本市)主として8万石を与えられた。なぜ数正は、家康を裏切ったのだろうか。

 天正12年(1584)、家康は小牧・長久手の戦いで、秀吉に敗れていた。数正は使者として秀吉のもとへ派遣されたので、その力量を十分に熟知していただろう。数正が秀吉から臣下となることを勧められたのか、自ら身を投じたのかは不明である。

 ほかにも理由がある。①叔父の家成が石川家の家督を継いだことに不満を持った、②数正が天正7年(1579)に自害した信康(家康の嫡男)の後見人を務めており、徳川家中での立場が悪くなった、などである。

 小牧・長久手の戦い後、徳川家中では対豊臣対策をめぐって、強硬派と穏健派が対立していた。秀吉の実力を知る数正は、穏健派だった。しかし、やがて数正は孤立し、身の危険を感じて出奔せざるを得なくなったというのが真相に近いとされている。

 重臣が主君あるいは同僚の家臣と意見が対立し、家中を飛び出す例はさほど珍しくない。とはいえ、数正の出奔は、家康や徳川家中に大きな衝撃を与えた。ただちに家康は岡崎城に入ると、秀吉との戦いに備えた。

 家康は岡崎城だけでなく、ほかの城の普請を積極的に進め軍制を改めた。というのも、数正は家康の懐刀だったので、徳川家のすべてを知り尽くしているからだった。さらに家康は遠江に三河国衆の婦女子を移し、本多重次を岡崎城代に任命した。

 数正が家康のもとから出奔したのには、今後を見据えての合理的な判断があった。秀吉も大歓迎だったに違いない。今なら「裏切り者」のレッテルを貼られるのでカッコ悪いが、当時はそうでもなかったのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事