家康は「従五位下・三河守」に叙位任官されることで、メリットがあったのだろうか
大河ドラマ「どうする家康」では、家康が従五位下・三河守に叙位任官されていた。今回は、叙位任官にメリットがあったのかについて、考えることにしよう。
永禄9年(1566)12月、家康は「従五位下・三河守」に叙位任官され、あわせて「松平」から「徳川」に改姓した。実際に勅許を得られたのは翌年1月のことで、以降は「松平家康」ではなく、晴れて「徳川家康」と称することになった。
ところで、われわれは「徳川」と表記するが、公家の間では「得川」と書かれるのが一般的だった。改姓の経緯を記した近衛前久の書状には、「徳川は得川と書くのが根本である。「徳」の字を書くのは、事情があるからだ」と書かれている。
重要なのは、叙位任官は決して「タダ」で授けられることがなかったことだ。家康は叙位任官に際して、間を取り持った近衛氏、吉田氏にお礼をすることになった。
近衛氏には馬が進上されたが、約束した200貫文(現在の貨幣価値で約2千万円)のうち、わずか20貫文(約200万円)しか献上されなかったという。吉田氏に至っては、存命中に約束した馬が献上されることがなかった。平たく言えば、踏み倒したのだ。
また、朝廷は家康に対して、四方拝(元日の早朝、宮中で天皇が天地四方の神祇を拝する儀式)の費用負担を求めた。家康が大金を払った理由は、三河守にそれだけの価値があると考えたからだろう。この点をもう少し考えてみよう。
かつて、自身が支配する国の受領を拝領することは、その後の支配に好影響をもたらすという学説があった。しかし、家康が三河守を獲得したとはいえ、百姓が急に従順になったとか、諸大名との関係が良くなったなどはありえない。だいたい証明が不可能である。
家康にすれば、対外的に「従五位下・三河守」の効果があると思ったのかもしれないが、それを見た人がただちに「ははあ~」と平伏するわけではない。いわば肩書の一つに過ぎなかったといえよう。
家康が大金を払ってまで、「従五位下・三河守」を獲得したのは、外聞を気にしたからだった。したがって、「従五位下・三河守」が家康にとって目に見えて効果があったとは思えず、それを証明することは不可能なのである。