家康は引馬城に籠る「女城主」のお田鶴の方と本当に戦ったのだろうか
大河ドラマ「どうする家康」では、お田鶴の方が女城主として引馬城に籠り、家康と戦っていた。その真偽について、考えることにしよう。
永禄8年(1565)12月、お田鶴の方の夫である飯尾連龍は、駿府で今川氏真が放った兵によって謀殺された。連龍は、氏真と敵対していた徳川家康に接近していたので、警戒されていたのである。その後、残されたお田鶴の方は、どうしたのだろうか。
実は、さまざまな二次史料によると、お田鶴の方は遠江に侵攻してきた家康に降参せず、最後まで引馬城(浜松城)に籠城して戦ったと伝える。以下、その逸話を取り上げることにしよう。
『徳川伝記』によると、家康は引馬城に使者を遣わし、助命とその後の生活の保障を条件として、お田鶴の方に降参を促したという。しかし、お田鶴の方はこれを拒否したので、家康は引馬城を攻撃した。
家康の軍勢は引馬城を攻めたものの、予想外の敗北を喫した。翌日、家康勢は態勢を立て直し、再び引馬城を攻撃したが、両軍ともに多数の犠牲者を出す激戦となった。
お田鶴の方は緋威の鎧に身を包み、武装した侍女17人とともに、徳川勢に戦いを挑んだ。長髪を振り乱し、決死の覚悟で戦いに臨んだという。しかし、衆寡敵せず、お田鶴の方と侍女らは、非業の戦死を遂げたのである。似た話は、『井伊家伝記』にも書かれている。
両者の攻防の際、戦闘の指揮を執ったのはお田鶴の方だったという。徳川勢は、酒井忠次、石川数正といった歴戦の勇士が戦いを挑んだが、なかなか引馬城を落とすことができなかったという。では、本当にお田鶴の方は、こうした戦いぶりを見せたのだろうか。
戦場を駆け回った女性としては、大祝鶴姫、富田信高の妻などの存在が知られている。彼女らは男顔負けの武勇を誇り、戦場で大手柄を挙げた。とはいえ、それらはたしかな史料に書かれたものではなく、単なる逸話にすぎないと考えられる。
当時の女性が戦ったことは、一次史料に見えないので、多くは戦うことなく素直に降参したと考えられる。おそらく、お田鶴の方も同じだったのではないだろうか。