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正室の帰蝶だけではなかった! 織田信長の側室を深掘りする

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の側室問題が焦点となっていた。ところで、織田信長の側室は影が薄いが、せっかくなので考えることにしよう。

 織田信長と言えば、正室の帰蝶(斎藤道三の娘)が有名だが、その生涯は意外なことに不明な点が多々ある。一方で、信長には側室がいたものの、あまり取り上げられることはない。今回は、生駒宗家の娘、坂氏、御ツマキ殿(明智光秀の妹)の3人を紹介しよう。

 生駒宗家の娘は、生没年について諸説ある。謎の女性である。信長の側室なのはたしかだが、いつ頃結婚したのかは定かではない。信長と生駒氏娘の間には、信忠、信雄、徳姫の3人の子が生まれたという。

 しかし、信忠の母については諸説があり、定説とはなっていない。また、徳姫を信忠の姉とする系図(『織田家雑録』)があり、不確定要素が強い。この辺りは、今後の課題といえるだろう。生駒氏の娘の没年は永禄9年(1566)とされているが、こちらにも異説がある。

 坂氏に至っては、その出自すらわかっていない。永禄元年(1558)に3男の信孝を産んだので、信長と結婚したのは、その前年ということになろう。ただし、2人が結婚に至った経緯は不明である。

 一説によると、信孝のほうが信雄より20日早く誕生したが、坂氏の身分が低かったので、信孝は3男の扱いになったという。側室の身分に応じて、子の待遇が変わることはありうることだ。

 信長の死後、信孝は柴田勝家とともに、羽柴(豊臣)秀吉に挙兵したが、失敗に終わった。その直後、坂氏は信孝に従っていたので、孫娘とともに磔刑に処されたという。

 最後の御ツマキ殿は、明智光秀の姉ともいわれているが、今は妹という説が有力である。御ツマキ殿が亡くなったのは、天正9年(1581)8月である。御ツマキ殿は信長に愛されていたので、その死が本能寺の変に繋がったという説もある。しかし、当該記事の史料解釈の問題があり、今後の課題でもある。

 信長の正室の帰蝶は謎のベールに包まれているが、それは側室も同じだった。最近の大河ドラマは、女性の活躍ぶりも取り上げられるので、どこかで登場するかもしれない。期待しよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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