Yahoo!ニュース

家康は女性好きだったので、多くの側室を迎えたのか。朝日姫のケースで考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、たくさんの女性を抱えていたことで知られている。今回は、本当に家康が女性好きだったのか、考えることにしよう。

 徳川家康の最初の妻は、築山殿だった。しかし、家康と築山殿との関係は徐々に悪化し、天正7年(1579)に築山殿は家康が放った刺客により殺害された。理由については、改めて検討することにしたい。

 家康は最初の妻を不幸な形で亡くしたが、その晩年に至るまで数多くの側室を迎えたという。今回は、側室の1人として有名な朝日姫(豊臣秀吉の妹)のケースを取り上げることにしよう。

 天正12年(1584)、家康は織田信雄とともに豊臣秀吉に兵を挙げた。小牧・長久手の戦いである。ところが、戦いは膠着状態になり、最終的に和睦を結ぶことになった。その際、秀吉は家康に上洛を促したが、警戒心からかなかなか実現しなかった。

 そこで、秀吉は警戒心を解くため、母の天瑞院(大政所)を岡崎(愛知県岡崎市)に向かわせた。加えて、秀吉は家康との関係を強めるため、妹の朝日姫を輿入れさせたのである。

 朝日姫は天文12年(1543)、父・筑阿弥(再婚後の夫)の娘として誕生した。母は天瑞院、兄は豊臣秀吉である。成長した朝日姫は、尾張国の地侍である佐治日向守と結婚したという。

 先述のとおり、秀吉は朝日姫を家康のもとに嫁がせようとしたが、そのためには夫と離縁させる必要があった。秀吉は堀尾吉晴・生駒正俊を派遣し、朝日姫の夫・佐治氏に500石の加増を条件として離縁を命じたという。

 秀吉は離縁を確認後、家康に朝日姫の輿入れを打診した。家康はこれを承諾し、天正14年(1586)に側室として朝日姫を迎え入れた。ときに朝日姫は44歳、家康は45歳だった。朝日姫は浜松城から駿府城に移ったので、駿河御前と呼ばれた。

 しかし、朝日姫はわずか2年間のみ家康と生活をともにしただけで、京都の聚楽第へ引き返した。実母の病気見舞いが理由だった。以後、朝日姫は家康のもとに帰ることなく、天正18年(1590)に聚楽第で没したのである。享年48。

 この例から明らかなように、当時の結婚は同盟関係を強固にする政略結婚が前提だった。このケースでも、家康と朝日姫との恋愛感情の有無は関係なかった。家康が側室をたくさん迎えたのは女性好きではなく、多くは単に同盟関係を結ぶためだったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事