家康に助言したイッセー尾形さんが演じる鳥居忠吉は、富裕な商工業者だった
大河ドラマ「どうする家康」では三河一向一揆が勃発すると、鳥居元吉が家康に助言をしていた。今回は元吉がいかなる人物だったのか、考えることにしよう。
イッセー尾形さんが演じる鳥居忠吉は白髪が目立ち、かなりの高齢だったようだ。気の毒なことに歯も抜けていて、非常に話しづらそうだ。言葉が聞き取りにくい。とはいえ、これは演出に過ぎないだろう。
鳥居忠吉は、渡城(愛知県岡崎市)主の忠明の子として生まれた(生年不詳)。元亀3年(1572)年に忠吉は80歳を越えて没したというので、生まれた年は15世紀末頃になると考えられる。
時期は不詳ながら、鳥居氏は松平氏に仕え、忠吉は家康の祖父の清康に仕えていた。しかし、清康も後継者の広忠も家臣に謀殺されたので、松平家は急速化に衰退し、今川氏の配下となることで何とか存続していた。家康は人質として、駿府に住むことになった。
家康が不在の岡崎城は、城代の忠吉や阿部定吉が政務を担当した。この間、家康の家臣は、年貢が今川氏に多く分配されたので、窮乏生活を強いられたという。それでも家康への忠誠を固く誓ったのは、三河武士の誇りだったのである。
家康の家臣は窮乏生活に耐え、乏しい年貢を無駄遣いせず、いざというときのために蓄えていた。永禄3年(1560)に桶狭間の戦いが勃発すると、家康は今川氏に従って出陣した。しかし、義元が討ち死にしたので、家康は岡崎城に戻ることになった。
家康が岡崎城に入ると、忠吉は家臣と協力し、苦心惨憺して貯めた財産を見せた。すると、家康は忠吉に感謝の言葉を述べたと伝わっている。とはいえ蓄財は、単なる倹約だけで可能だったのだろうかという疑問が残る。
『永禄一揆由来』や『三州一向宗乱記』などによると、忠吉は富裕な商工業者だったといわれている。鳥居氏は矢作川などの水陸交通の要衝に本拠を置いていたので、経済活動で儲けていたとの指摘もある。これが蓄財の秘密だった可能性はある。
ドラマの中の忠吉は、歯が抜けて何を言っているのか訳が分からないヘンな役どころではあるが、実際は家康を支えるだけの財産を持つ富裕層だった可能性が高いのだ。