松平家康が危機一髪!三河一向一揆で反旗を翻した武将たち
大河ドラマ「どうする家康」では、三河一向一揆が勃発した。今回は、三河一向一揆が勃発した2つの理由について、深掘りすることにしよう。なお、三河一向一揆の経過については、こちらも参照ください。
永禄6年(1563)の秋、三河一向一揆が勃発した。三河一向一揆は単に門徒だけが松平家康に挙兵したのではなく、「反家康」の周辺の武将たちも加わっていた。そして、あろうことか、家康の家臣までもが与同していたのである。
三河の武将では、東条城(愛知県吉良町)の吉良義昭、八ッ面城(同西尾市)の荒川義広、六栗城(同幸田町)の夏目吉信が三河一向一揆に味方した。吉良義昭は家康とたびたび交戦し、永禄4年(1561)9月に降参していた。
義広は吉良氏の一族だったが、もとは家康と協力して、義昭を攻めていた。吉信は家康に仕え、各地を転戦していた。ともに、三河一向一揆が勃発すると、家康から寝返ったのである。その理由は、今川氏に加担しようと考えていたからだという。
上野城(愛知県西尾市)の酒井忠尚は家康の重臣だったが、一向宗の門徒ではなかった。しかし、家康が今川と手切れをした際、忠尚は猛反対した。結果、忠尚は家中で孤立し、居場所がなくなった。その不満により、一揆勢に加わったといわれている。
家康がもっとも苦しかったのは、譜代の家臣が一揆勢に加担したことだろう。渡辺守綱は槍の名手だったが、その一族はすべて一揆勢に加わった。ただし、石川氏、本多氏、内藤氏、鳥居氏の場合は、方針をめぐって一族が分裂した。
本多氏の場合は、広孝、重次、忠勝が家康に味方し、正信、正重兄弟は一揆勢に与した。石川氏の場合は、重安、正俊らほかが一揆勢に加担し、家成、数正らが家康側に加わった。一族で争うことになったのだ。
戦いの結果、家康は半年掛かりで、三河一向一揆の鎮圧に成功した。家康に叛旗を翻した家臣のうち、渡辺一族は帰参することを許された。一方で、追放された家臣も少なくなかった。
家康は一揆を鎮圧することで自らの権力を誇示し、家臣団の統制にも成功したのだ。