明智光秀は織田信長が人質となった母を見殺しにしたので、深く恨み凶行に及んだのか
東映創立70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、織田信長が人質となった明智光秀の母を見殺しにした件について考えてみよう。
明智光秀は信長の命により、天正6年(1578)3月から本格的に丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)を攻略すると、約1年3ヵ月後に波多野秀治ら三兄弟は降参した。翌年6月2日、三兄弟は安土城(滋賀県近江八幡市)に連行され、磔刑に処されたのである(『信長公記』)。
『総見記』という史料には、有名なエピソードが残っている。この点を確認しておこう。
戦いの終盤、光秀は愛宕山大善寺(京都市右京区)らを仲介として、波多野氏に和平を持ち掛けた。交渉内容とは、信長は波多野氏に遺恨があるわけではなく、天下統一に志があるので、波多野氏が降伏すれば丹波一国を安堵し、家の存続を保証するというものだ。
信長から和平の証として起請文を差し出すとまで言ったが、波多野氏は疑って拒否した。そこで、光秀は八上城に自身の母を人質として預け、秀治ら三兄弟の助命を約束したうえで、彼らを降伏させたのである。
その後、秀治らは光秀の城へ向かうと、光秀は秀治らを捕らえ、安土城にいる信長に報告した。秀治は安土城へ連行される途中に怪我で亡くなり、弟の秀尚は安土城で生害した。それを聞いた八上城の残党は怒り狂い、報復措置として光秀の母を磔にしたのである。
『信長公記』によると、光秀の兵粮攻めによって籠城していた将兵は完全に疲弊していた。同趣旨のことは、複数の光秀書状にも書かれている(「下条文書」など)。落城は目前だったので、有利な光秀が波多野氏に母を人質として送り込む必要はないだろう。
『総見記』とは、『織田軍記』と称されている軍記物語の一種である。遠山信春の著作で、貞享2年(1685)頃に成立したという。内容は、史料的に問題が多いとされる小瀬甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したもので、脚色や創作が随所に加えられている。
史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低い。記述に大きな偏りが見られるため、とうてい信用に値するものではないと評価されている。したがって、歴史史料として用いるのは適切ではない。
結論を言えば、八上城の開城後の措置については、光秀の書状や『信長公記』の記述のほうが信憑性が高く、『総見記』などの記述はあてにならない。したがって、信長が光秀の母を見殺しにした逸話はまったくの創作であり、史実として認めがたいのである。