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戦国時代の長期戦が長続きせず、失敗に終わったわけ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
毛利元就。(提供:イメージマート)

 ロシアによるウクライナ侵攻がはじまって、1年が経過した。当初のさまざまな予想とは裏腹に、戦争の終結はなかなか見えてこない。今回は、戦国時代の長期戦が長続きせず、なぜ失敗に終わったのかを考えてみよう。

 天文9年(1540)8月、出雲など数ヵ国を支配する尼子詮久は、約3万といわれる兵を率いて、毛利元就が籠る吉田郡山城(広島県安芸高田市)への攻撃を開始した。尼子氏は周防大内氏と敵対していたが、毛利氏が大内氏に従っていたからだ。

 一説によると、毛利方の将兵は約8千人だったといわれている。圧倒的に兵力差があるのだから、尼子氏の勝利は間違いないと誰もが思った。ところが、毛利氏は粘り強く戦い抜き、尼子氏の猛攻を凌いだ。その結果、同年12月に尼子氏は虚しく出雲に撤退したのである。

 毛利氏が勝利したのは、元就の手腕に拠るところが大きいが、理由は決してそれだけではないだろう。以下、その点について、もう少し考えてみよう。

 当時の将兵(特に下級の武士)は、農業で生計を立てていた。戦いのあるときは、主人に従って出陣し、軍功を挙げたら恩賞をもらえたのである。つまり、尼子氏による吉田郡山城は約4ヵ月も続いたが、いつまでも従軍している余裕はなかったのだ。

 ついで、問題となるのは兵糧の問題である。従軍した将兵は当座の兵糧を持参したものの、長期戦になると大名が負担しなくてはならなかった。むろん財政的な問題もあるが、実際に兵糧を確実に確保できるのかという不安もあった。

 毛利領内の村々の人々は、決して尼子氏を歓迎したわけではない。彼らも吉田郡山城に籠って、徹底抗戦に臨んだ。ときに、将兵は乱取りという略奪行為に及ぶこともあったのだから、なおさら歓迎しなかった。

 また、尼子氏の将兵が長期戦に臨むには、粗末な小屋を自ら作り、滞在するしかなかった。やがて冬を迎えると、極寒の中で年を越すのが嫌になり、だんだん士気が下がるのは当然のことである。

 長期戦を展開するには、兵糧の問題、将兵の動員の問題、将兵の士気を維持する問題があった。短期決戦で敵を即座に撃破すれば問題はなかったが、長期になるとだんだん厭戦ムードが漂って来る。尼子氏の場合は、その結果として撤退せざるを得なくなったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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