【深掘り「どうする家康」】少年期の松平元康は戦略眼に優れ、決して臆病ではなかった
大河ドラマ「どうする家康」では、松平元康がおどおどするのがお決まりである。今回は、少年期の元康が戦略眼に優れていた点について、深掘りすることにしよう。
10歳だった元康(当時の幼名は竹千代。以下、元康で統一)は、今川氏のもとで人質生活を送っていた。ある日、元康は家来とともに安倍河原に行って、端午の石合戦を見物することになった。
石合戦とは二手に分かれて、石を投げ合うものである。子供の遊びの一つだった。一方は300人ほどの子供がいたが、もう一方は150人ほどに過ぎなかった。見物人は両方の数から判断して、多勢の方を応援すべく、その陣地に向かった。
多くの人は、数の少ないほうが負けると思っていたが、元康は違っていた。家来が多勢のほうに行こうとしたが、元康は「必ず数の少ないほうが勝つ」と言い出して、数の少ないほうに行こうとした。
さすがの家来も「元康様は、訳の分からぬことをおしゃるものだ」と呆れ果て、元康の指示があったにもかかわらず、多勢のほうに無理やり行ったのである。
ところが、いざ開戦すると、数の少ないほうには、後から大勢の応援が駆け付けて、新手が入れ代わり立ち代わり敵に石を打った。すると、多勢のほうは散々に負けてしまい、ついに逃げてしまったのである。多勢のほうを応援していた者も逃げてしまった。
元康はその情勢を見て、「ほら、私が言ったとおりだろう」と言い、家来の頭を叩いて笑ったという。元康は少ないほうに援軍が来ることを予想していたのだろう。
この話を聞いた今川義元は、「将門に将あり(大将を輩出する家柄には、まさしく大将となる人物がいた)」と感嘆し、元康の将来を大いに期待したと伝わっている。
この逸話を載せるのは、岡谷繁実が19世紀にまとめた『名将言行録』である。私たちが知る戦国武将の有名なエピソードは、同書に書かれていることが多い。
とはいえ、この少年期の元康については、別に明確な根拠があるわけではない。天下人となった家康を称えるべく、その少年期における才覚を石合戦の逸話として創作したものと思われる。