織田信長がキリスト教の布教を許した当たり前すぎる理由
東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、織田信長がキリスト教の布教を許した理由について考えてみよう。
織田信長のキリスト教に対する記述は、フロイスの『日本史』などに拠るしかなく、日本側の史料には『信長公記』を含め、ほんのわずかしか記録がない。
信長とキリスト教の出会いは、永禄12年(1569)のことである。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、修道士のロレンソとともに信長の居城・岐阜城(岐阜市)を訪問した。フロイスは京都での布教を認められなかったので、信長に助力を求めようとしたのだ。
結果、信長はフロイスの訪問を大いに歓迎し、京都におけるキリスト教の布教を認めた。以降、信長はキリスト教を保護し続けたが、自身が信者になったわけではないので、注意が必要だろう。
具体的に保護内容を述べると、信長は教会堂(南蛮寺)の建築許可、安土城下における教会とセミナリヨ(神学校)の建築許可、巡察使のヴァリニャーノに接見するなどし、キリスト教の布教に大いに貢献した。
ところで、信長はキリスト教について、どう思っていたのだろうか。通説によると、信長はキリスト教を利用して、仏教勢力を牽制しようとしたという。しかし、信長は別に仏教勢力を根絶やしにしようと考えておらず、延暦寺や大坂本願寺は歯向かってきたので、戦ったにすぎない。
また、信長は毛利氏を牽制するために、九州のキリシタン大名と関係を深める必要に迫られたという説がある。当時、毛利氏は九州北部で大友氏と覇権を争っていたのは事実であるが、キリシタン大名と誼を通じるため、なぜキリスト教が必要なのか理解に苦しむ。
天下統一を目指す信長は、遠路はるばる来日した宣教師が命を懸けて布教に励む様子に感心し、その布教に対する使命感に共感したという説がある。しかし、こちらの説も信長自身がそう発言したわけでもなく、いささか論理に飛躍がある。
当時、特定の宗教や信仰を排撃することは、良くないことだと認識されていた。信長自身も宗教や信仰に対して、優劣を付けようとしなかった。信長が宗派を問わず寺社保護を行ったのは、一つの証左といえる。
つまり、信長はキリスト教も数ある宗教のなかの一つと考え、保護した可能性が高いのではないかと指摘されている。信長がキリスト教を特別視したと考える必要は、特段ないといえるだろう。