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【深掘り「どうする家康」】於大の方が久松俊勝と再婚した経緯とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
於大の方を演じる松嶋菜々子さん。(写真:ロイター/アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、於大の方の再婚相手・久松俊勝が登場していた。2人はなぜ結婚したのか、その点を深掘りすることにしよう。

 水野忠政の娘・於大の方が松平広忠と結婚したのは、天文10年(1541)のことである。2人の結婚は、政略によるものだった。その翌年に誕生したのが竹千代だった(のちの松平元康、徳川家康)。しかし、2人の結婚生活は長く続かなかった。

 忠政の死後、家督を継いだ子の信元は、織田方に寝返った。広忠は今川方に与していたので立場がまずくなり、天文13年(1544)に於大の方と離縁したのである。長年にわたる今川氏との関係を考慮すれば、広忠の止むを得ない決断だった。

 天文16年(1547)、於大の方が再婚した相手が久松俊勝だった。2人の結婚の経緯については、詳らかではない。俊勝は、阿古居城(坂部城とも。愛知県阿久比町)の城主を務めていた。では、俊勝とは、いかなる人物だったのだろうか。

 俊勝が誕生したのは大永6年(1526)なので、於大の方より2歳年上である。俊勝の妻は佐治氏の娘だったといわれているが、詳しくわかっているわけではない。久勝は再婚で、於大の方を正室に迎えたと考えられる。

 俊勝の立場は、織田方として考えるべきであろう。信元が織田方に寝返ったので、その関係を強固にするため、於大の方を俊勝の妻として送り込んだのである。

 しかし、俊勝の子の信俊(於大の方の子ではない)は、広忠の斡旋により、佐治佐渡守の娘を妻に迎えたという。これは、『寛政重修諸家譜』に書かれた話であるが、幕府を憚った創作ではないかと推測される。

 於大の方と俊勝の間には、康元、康俊、定勝の男子、多劫姫、松姫、天桂院といった子に恵まれた。永禄3年(1560)3月、元康は阿古居城で康元、康俊、定勝に会ったという。その後、血は繋がっていないとはいえ、義兄弟ではあるので、「松平」の名字を授けた。

 のちに家康が合戦に出陣すると、俊勝の子らも従った。彼らが戦場で軍功を挙げると、相応の知行を与えた。俊勝の子は家康を終生支え続け、江戸幕府の発展に大いに貢献したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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