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織田信長が松永久秀を許さなかった深いワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
多聞山城の石碑。(写真:イメージマート)

 東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、織田信長が松永久秀を許さなかった理由について考えてみよう。

 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を推戴して上洛すると、松永久秀は元亀元年(1570)に大和一国を与えられた。久秀は名物の茶器「九十九髪茄子」のほか、「不動国行の刀」以下の諸名物を信長に献上し、臣従を誓ったのである。

 元亀2年(1571)久秀は三好三人衆と手を組み、信長から寝返った。久秀は甲斐の武田信玄とも通じ、反信長の諸大名と連携して反旗を翻したのだ。天正元年(1573)、足利義昭と信長の関係が決裂すると、久秀は義昭に与した。

 ここまでの久秀には威勢があったが、同年に義昭が信長に敗れ逃走した。翌天正2年(1574)、久秀は多聞山城を信長に攻囲され降伏すると、居城の多聞山城を信長に差し出し許しを請うたのである。以降、久秀は再び信長に従った。

 しかし、天正5年(1577)8月になると、再び久秀は信長に反旗を翻した。驚いた信長は配下の松井有閑を久秀のもとに派遣して理由を尋ねたが、久秀は有閑に会おうともしなかった。それはなぜか。

 前年の天正4年(1576)、足利義昭は備後鞆(広島県福山市)に移ると、毛利氏の庇護下で各地の大名に反信長の檄を飛ばしていた。久秀は、その誘いに応じたと考えられる。

 天正5年(1577)8月10日、信長は久秀を討つべく、嫡男・織田信忠を総大将とし、筒井順慶勢を主力とした軍勢を派遣した。同年10月に信忠らが信貴山城を包囲すると、たちまち久秀は窮地に追い込まれた。

 信長は久秀に対し、名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば命を助けると伝えた。当時、茶の名器は一国に値するとさえいわれていた。ところが、久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と二つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と回答した。

 久秀の答えを聞いた信長は、人質になっていた久秀の孫2人を京都六条河原で処刑した。やがて、織田軍の総攻撃が始まると、久秀は天守で「平蜘蛛茶釜」を叩き割り、10月10日に自害したのである。なお、一説によると、茶釜に爆薬を仕込んで自爆したとも伝わる。

 つまり、久秀は何度か信長に叛旗を翻し、その度に許しを請うていた。最後も信長は許す気配を見せたが、久秀は覚悟を決めていた。信長は久秀を「使える」と考えたのだろう。しかし、久秀が服属しないなら話は別で、信長としても討たざるを得なかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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