織田信長が足利義昭を推戴して上洛した意外な理由とは
東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が公開されている。今回は、織田信長が足利義昭を推戴して上洛した意外な理由について考えてみよう。
永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛するため、近江国の六角承禎(義賢)に協力を求めた。ところが、承禎は三好三人衆との関係から申し出を拒否したので、信長は観音寺城の戦いで承禎を打ち負かして前進した。
同年10月、信長は畿内近辺に勢力を持つ三好三人衆らの諸勢力を攻略すると、敵方だった池田勝正や松永久秀が信長に従った。信長は畿内周辺を平定すると、やがて義昭を推戴して入京を果たしたのだ。
信長の軍事行動は、室町幕府再興を目指す義昭のためであり、その事実が信長の軍事行動の正当性を担保した。信長が義昭を奉じて入京した目的は、義昭を傀儡とし、時機を見て追放しようとすることではなかった。
もし、それが事実ならば、入京した時点で義昭を追放すれば済む話である。同年10月18日、義昭は正式に将軍宣下を受け、室町幕府再興を果たした。これこそが信長の真の目的だった。
なお、信長の時代の天下は、決して日本全国を意味しなかった。天下の意味は、天皇や将軍の威勢が及ぶ、京都を中心とした五畿内(大和、山城、和泉、河内、摂津)を意味すると指摘されている。
従来、信長は義昭を将軍の座につけ、室町幕府再興を支援したが、それは自身が天下を取るための布石だったと主張する研究者が存在した。つまり、義昭は傀儡に過ぎなかったというのであるが、現在では否定的な研究者のほうが多いくらいである。
戦国期以降、たしかに室町幕府は衰退するが、将軍は各地の戦国大名に官職の授与の斡旋を行い、また大名間の紛争の調停を行うなど、決して存在感がなかったわけではない。将軍としての権威は残っていた。
現在では、従来の「将軍は無力である」とする見解に対して、足利将軍や室町幕府の研究者から数多くの疑義が提起されている。将軍はさまざまな行為を通して、諸大名に存在感を示したのだ。
結論を言えば、信長が義昭を奉じて上洛したのは、「天下(=畿内)」の静謐であり、それは朝廷への奉仕にも貢献するためだった。信長は畿内の平和と秩序の維持を考え、かつての管領のような立場で義昭を支えようとしたのだ。