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本能寺の変後、織田信長の焼死体が見つからなかった当たり前の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
奥の院にある織田信長墓所。(写真:イメージマート)

 東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が公開されている。今回は、本能寺の変後、織田信長の焼死体が見つからなかった理由について考えてみよう。

 天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀は突如として、織田信長が滞在中の京都本能寺を襲撃した。信長は予想すらしていなかったので、大変驚いたに違いない。

 信長配下の武将が奮闘したとはいえ、所詮は多勢に無勢。わずかな時間の間に、信長方の形勢は不利になった。最初、信長は弓を取って、矢を2・3度放った。しかし、しばらくすると弓の弦が切れたので、今度は槍を手に取って戦った。

 しかし、信長は肘に槍で傷を負ったので引き下がり、女中たちに退去を命じた。もはや御殿には火が広がっていた。すると、信長は殿中の奥深くに入り、内側から納戸を閉じると自害した(『信長公記』)。享年49。その後、本能寺は紅蓮の炎に包まれた。

 ところで、問題になったのは、本能寺の焼け跡から信長の焼死体が見つからないことだった。信長は死んだに違いないが、もし万が一生きていたら非常に困る。光秀もイライラしたに違いない。

 フロイスの『日本史』は信長の最期について、灰すらも残ることなく燃え尽きたとまで書いている。フロイスは当初こそ信長に好感を抱いていたが、その晩年は布教の問題も相まって、悪しざまに罵るようになった。

 信長の死骸が残らなかったことは、「実は本能寺から逃げ出していた」などの妙な憶測を呼んだ。その後、信長が生きていたことを示す史料はないのだから、本能寺で焼け死んだのは確実だろう。

 信長の焼死体が残らなかったのは、そもそも黒こげの死体だったので、判別がつかなかったということが考えられる。仮に、信長らしき焼死体を発見しても、DNA鑑定、歯型による鑑定の方法がなかったのだから、特定することは極めて困難だった。

 合戦で首を取られた場合は、首実検により、誰の首なのかを特定することができた。しかし、焼死体の場合は、そう簡単にいかなかった。信長の焼死体が見つからなかったことに特別な意味を持たせる必要はなく、単に「わからなかった」ということになろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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