【深掘り「どうする家康」】本多忠勝は生涯に出陣した合戦で、本当にかすり傷一つしなかったのか
大河ドラマ「どうする家康」では、本多忠勝の姿が異彩を放っている。忠勝は生涯の合戦で、かすり傷一つしなかったといわれているが、その点を深掘りすることにしよう。
天文17年(1548)、本多忠勝は忠高の長男として、三河国で誕生した。徳川家康の配下の武将で、「徳川四天王」(ほかは、酒井忠次、榊原康政、井伊直政)の1人だった。
永禄3年(1560)、忠勝は鳥屋根城(愛知県豊川市)の戦いで、叔父の忠真から「戦功にせよ」と首を譲られたが、これを断って自ら敵の首を取ったという。
忠勝が用いた槍は、「天下三名槍」の一つ「蜻蛉切」(藤原正真作)だった。約6メートルの長身の槍で、蜻蛉が槍の穂先に止まったとき、そのまま真っ二つに切れたという。こんなに大きな槍を自由自在に振るっていたのだから、大いに軍功を挙げることができたわけである。
忠勝は二代将軍になった徳川秀忠から、「三国黒」という名馬を与えられたといわれている。「三国黒」の体長は「9尺(約270センチメートル)」あったというが、これではあまりに大き過ぎるので誇張したものだろう。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で東軍に属した忠勝は、「三国黒」に乗って戦場に乗り込んだ。忠勝は「三国黒」を操り、戦場で指揮を執っていたが、やがて西軍の島津義弘、宇喜多秀家の陣に突撃した。
ところが、戦いの最中に悲劇が起こった。忠勝の愛馬「三国黒」は戦闘中に銃撃を受け(一説によると矢を受けたとも)、死んでしまったのである。忠勝は悲嘆に暮れる間もなく、自らの足で戦場を駆け回った。
一連の模様を見ていた与力の一人である梶勝忠は、自分の馬を忠勝に提供し、その窮地を救ったと伝わっている。のちに勝忠は、忠勝が藩主となった桑名藩の家老となり藩政を支えた。
何より忠勝が有名なのは、生涯を通じて57回の合戦に出陣したが、かすり傷一つすら負わなかったという逸話である(『藩翰譜』など)。これは、諸書で紹介されている。
むろん、これはたしかめようのない話であり、史実か否か疑わしい。大怪我はしなかったかもしれないが、戦場で怪我をしなかったというのはあり得ず、忠勝を顕彰したものにすぎない。