織田信長が印章として用いた「天下布武」は、誰が考えたのか
東映70周年を記念して、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が近く公開される。信長といえば、「天下布武」の印章を用いたことで知られるが、誰が考えたのか探ってみよう。
織田信長は花押に加えて、印章を用いたことで知られている。印章は花押の代わりになるもので、朱印と黒印の2種類がある。印章は花押よりも礼が薄く、書状などを大量に発給する場合に向いていた。
信長の印章の形状は、4種類に分類できる。うち3種類の印文は有名な「天下布武」の朱印(あるいは黒印)である。残りの1種類の印文は「寶」で、黒印でのみ用いられた。「天下布武」印は朱印と黒印が確認できるが、どのように使い分けたのかは不明である。
「天下布武」印で有名なのは楕円形のものであるが、残念ながら本物は現存しない。『政秀寺記』によると、最初は金で印を製作したが、印影が薄かったので銅を混ぜて作り直しをさせたという。
永禄10年(1567)に信長が美濃の斎藤氏を討った頃から、「天下布武」印は使用された。信長は、この頃から上洛を志向したと考えられる。信長が将軍の足利義昭を奉じて上洛を果たしたのは、翌年9月のことである。
なぜ信長は、「天下布武」という文字を印文に選んだのであろうか。「天下布武」という文字を選んだのは、政秀寺(名古屋市中区)の開山の沢彦宗恩(たくげんそうおん)という僧侶である。
当初、信長は「天下布武」という4文字を嫌っていたので、沢彦は「中国では4文字の印文は普通に用いられている」と助言したと伝わる(『政秀寺記』)。惜しまれることに、「天下布武」の出典は不明である。
なお、沢彦は「岐阜」を命名した人物でもある。永禄10年(1567)、信長は斎藤氏を放逐し、美濃の制圧に成功した。その際、沢彦は周の文王の故事にならい、当時、井ノ口と呼ばれた城下を岐阜に改称させたといわれている。
注意すべきは、当時の天下が「日本全国」を意味するのではなく、天皇や将軍の勢力圏である京都を中心とした五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)を意味することである。この点は、改めて取り上げることにしよう。