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【深掘り「どうする家康」】桶狭間の戦い後、すぐに徳川家康が今川氏と手を切らなかった理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川氏真を演じる溝端淳平さん。(写真:長田洋平/アフロ)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、桶狭間の戦い後の徳川家康の姿が描かれていた。今回は家康がすぐに今川氏と手を切らなかった理由について、詳しく解説することにしたい。

 永禄3年(1560)5月19日、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、自らも討たれてしまった。義元の死は今川氏だけでなく、その配下にあった家康の立場にも大きな影響を及ぼした。

 今川氏は当主の義元を失ったので、ただちに子の氏真が後継者となった。念のために言うと、今川氏は桶狭間の戦い後に滅亡したわけではなかったので、家康はそのまま今川氏との関係は解消しなかった。

 義元の死の直後、家康はその日の夜に大高城(名古屋市緑区)をあとにすると、翌日に菩提寺の大樹寺(愛知県岡崎市)に入った。大樹寺は浄土宗寺院で、松平親忠が開基だった。のちに、松平清康(家康の祖父)が再興し、多宝塔が建立されたのである。

 義元の死を家康に伝えたのは、織田方の水野信元(家康の母・於大の方の兄)が使者として遣わした浅井道忠だった。道忠は家康に義元が討ち取られたことを報告すると、ただちに大高城から退去するように勧めた。

 しかし、家康は念には念を入れて、配下の者を桶狭間に派遣し、状況を確認させたという。それから大高城を発って、岡崎城に帰還しようとしたが、まだ城内には今川方の将兵が残っていた。そこで、先述のとおり、いったん大樹寺(愛知県岡崎市)に入ったというのが真相だった。

 やがて今川氏の命令があったのか、岡崎城内の今川氏の将兵は城から退去した。これを受けて、家康は配下の将兵とともに岡崎城に帰還を果たしたのである。

 5月22日、家康は今川氏の敗報を伝えた道忠に対し、所領を宛がった。そして、6月、7月にわたり、三河国の崇福寺、法蔵寺(以上、愛知県岡崎市)に禁制または定書を与えたのである。

 義元の死により、家康は人質生活から解放されたが、いまだに今川氏に与していた。そして、家康は引き続き織田信長と戦い、三河西部の挙母、梅ヶ坪、広瀬、沓掛の奪還を目論んだのである。

 家康は義元が亡くなったとはいえ、ただちに今川氏と関係を断ち、織田氏に与したのではない。そもそも信長とは敵対していたのだから、急速に関係改善などできるわけがない。まだ、様子見の段階だったといえよう。

 家康が今川氏から離反するには、もう少し時間が掛かるのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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